孤児列車

孤児列車

クライン『孤児列車』。一九世紀中庸から一九三〇年代ぐらいまで行われていた、都会の孤児を田舎の家に養子縁組する「孤児列車」という運動に取材して、現代の孤児と過去の孤児との交流を描く小説。終盤、かなり「アメリカン」な方向に振れていってしまうのが残念だが(だから全米ベストセラーなのだろうけど)、孤児の苦境を丁寧に描く前半は真に迫っている。孤児はこどもとして扱われることは極めてまれで、実際は安価な労働力としてもらわれていった。孤児には孤児院での生活を遥かに越える困難が待ち受けていたということを知るという一点において価値のある一冊。


震えのある女 ─ 私の神経の物語

震えのある女 ─ 私の神経の物語

ハストヴェット『震えのある女』。講演中、喋りはいたって冷静だし、頭もクリアなのに、首から下が勝手に震え出してしまう。ある日突然そんな症状に見舞われたハストヴェットは、「震える女」という内なる他者のことを知ろうと試みる。脳科学精神分析、哲学、文學、認知科学等の文献を渉猟、あてどない彷徨を続けるその過程はさながら九十九折りのごとし。一九世紀的ヒステリーや心身二元論らを退け、制御の及ばない症状を厄介な隣人として扱うのではなく、そこに自ら飛び込み同一化する。偏頭痛を忌避するのではなく偏頭痛持ちの自分を認めることで頭痛とうまく付き合えるようになった経験をもつ著者は、震えさえも同じように自分の一部として認める道を選ぶ。『ひとはみな妄想する』におけるラカンとは別の路線からアプローチを重ね、別解を導き出す。意識や心、情動論をめぐる重厚な思索はスリリングで、「闘病記」という帯はミスリーディング。小説や他のエッセーも読んでみたくなる傑作。

ニュー・マテリアリズムは週末に

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号』
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791713011 


■連載――●科学者の散歩道●第一九回
  「法の支配」と「ワンダー科学」 「やしの実」 / 佐藤文隆

■連載――●家族・性・市場●第一一二回
  生の現代のために・3 / 立岩真也




新しい唯物論   

【討議1】
生活の分解のために / 篠原雅武+藤原辰史


【物質と思考】
二一世紀のための生哲学 / E・サッカー 島田貴史訳
フェミニズム唯物論・自由 / E・グロス 清水知子訳
クィアエコロジー / T・モートン 篠原雅武訳
「新しい唯物論方法序説(素描) / 藤本一勇


【インタビュー】
建築のマテリアリズム / 磯崎新 日埜直彦(聞き手)


【何処を目指すのか】
唯物論をめぐる応答 特異な個体だけからなる存在論とはいかなるものでありうるか / M・デランダ 近藤和敬訳
思弁的唯物論のラフスケッチ わたしたちは如何にして相関の外へ出られるか / Q・メイヤスー 黒木萬代訳


【討議2】
兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン


【分散と制御】
加速と隷属 機械状資本論ノート / 水嶋一憲
拡張する表皮 複数化するスクリーンから透明なインターフェイスへ / 難波阿丹
プロトコル 脱中心化以降のコントロールはいかに作動するのか / A・ギャロウェイ 松谷容作・増田展大訳 北野圭介監訳


【批判】
脱-様相と無-様相 様相中心主義批判 / 江川隆男
実在を巡って シャヴィロとハーマン、そしてホワイトヘッドへの批判 / 森元斎


【空間と生命】
人工の都市/匿名の都市 / 篠原雅武
予測と予知、技術的特異点と生命的特異点 / 原島大輔



■研究手帖
そこにある相関主義 / 仲山ひふみ

現代思想』新しい唯物論特集。人間を中心とした哲学に対する根本的な批判を加える、あるいはそのような哲学からの脱却を志向する思弁的傾向と、ひとまずまとめることができるかもしれない。しかしこれはポストヒューマンの思想とは毛色が異なる。新しい唯物論は、人間の内部から批判を加える脱構築的なポストヒューマンの思想というよりは、そのような人間的思考がそもそも及ばない、情動や数学、気候、プロトコルに司られた無機的な、非人間的な、モノの思想(materialism)を志向する。一括りにはできそうもない多様な群れなので、この一群を総括するには相当な力技が要求されると思うし、おそらく総括など受けつけないだろう(暫定的な展望としては、本書中の「兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン」や『現代思想』一月号における「思弁的実在論と新しい唯物論 / 千葉雅也 岡嶋隆佑(聞き手)」を参照するとよいだろう)。なのでここでは本書と十把一絡げになったモノとしての読後感をつづる。

新しい唯物論の中心的なテーマとして取り上げられるのは絶滅や気候変動だ。だが絶滅や気候変動の話となると、どうしても大きな画期的な出来事を思い浮かべてしまう。しかし本特集に寄せられた論稿の群れを読む限り、むしろ出来事の微細さにこそ注意を払うべきであるように思う。出来事は大きな地殻変動によってもたらされるものではなく、ごく微細な出来事、それゆえに感知するのが困難な震えのようなものの堆積そのものである。それは群発的ながら体感できないような予震のようなものかもしれない。あるいは予震のみで、本震や余震はやってこないかもしれない。いや、そもそも地震とはすべて予震なのかもしれない。アビ・ヴァールブルグが知覚の限界を超えた地震計たらんとしたのは、このような人間主義を超えたモノの次元、情念というマテリアルの領域においてだった、ととらえ直すこともできるだろう。この限りにおいて出来事がとりかえしのつかないものであるのは、それが物理的に大き過ぎて手に余るものだからではない。それはわたしたちの認識に穴を穿つ、あるいは穴があることを指し示してしまうからこそとりかえしがつかない。震源はいつもわたしのなかにある。人間だと信じているわたしの生活のなかで、わたしというモノは揺れる。わたしは人間ではなくモノだから震える。
絶滅や気候変動について想像するということは、人間の終局(たとえば核戦争)を想像することだとよく言われる。環境保護や食糧問題は、そうした終局を防ぐための弥縫策を紡ぐ領域だ。だがそれでは手垢にまみれた終末論と違いはない。ここで問われるべきは、人間などそもそもいない世界、わたしがモノとして在る世界である。出来事が属する場所があるとするなら、それはこのような非人間的なモノのパラレルワールドにほかならない。絶滅や気候変動は、(アウシュヴィッツ絶滅収容所のような)人間にとっての出来事ではない。それは人間のいない、わたしたちが人間であることをカッコに入れ(この点で新しい唯物論現象学を裏返した思弁、つまりモノ自体をカッコに入れるのではなく現象をカッコに入れる思弁だと言える。そのためかつて現象学に向けられた批判が新しい唯物論や思弁的実在論にも当てはまる部分はあるのかもしれない)、モノとして生きていることを想像するための體(からだ)をひらく、いまだ到来したことのない出来事である。そして人間の「命」を起点とはしない、モノとしての生を想像するという投機こそが想像と呼ばれる。出来事が属する非人間的なモノの世界に、認識と経験を裂きながら架橋する想像力の場は仮設される。より過激に言えば、人間について想像することはもはや想像ではない。それは旧知の認識を上書きするに過ぎない。モノであること、モノとともにあることを想像するときにだけ、わたしは想像力を働かせている。思弁的=投機的想像力はモノに宿っている。
出来事(event)は現代思想における鍵語のひとつとしてすでにその地位を確立している。出来事は、過去‐現在‐未来という、はっきりと見える現在を起点に展開される時間軸、及びその常識的時間とともに継起する常識的な認識、あるいは「想定内」という予測可能な範疇と「想定外」とを距てる、人間の想定そのものを暈してご破算にしてしまう。出来事は命あるわたしが考えうる限界を超えるものであり、わたしには経験しえないはずの出来事でなければ出来事しての力を持ちえない。「それ」は、わたしの想定を裏切って不意に到来する。未知の「それ」はわたしのなかに出来する(take place)。出来事は人間であるわたしとは無関係に存在していて、わたしの人間としての生とはかけ離れたものであるかのように映る。けれどもわたしは実際は、出来事の(兆候の)積み重ねのなかに生きている。わたしたちが常識的で変化に乏しいと感じている日常は、実のところ、一回限りの、人間であるわたしが望んだことのない、モノとしてのわたしに到来する出来事が描く軌跡の破線なのかもしれない。この意味で出来事は、時間の延長線上にある目的(the end)や予定調和的な終末(the end)とはいかなる関係をも結ばない。出来事はむしろ、ありふれた週末(weekend)のようなものだ。ただし破局や非知として生きる週末、人間的な命の終末ではなく新しいモノの生がそこから披けてくるような週末。認識も経験もできない、モノとしての想像力とともに営まれている週末。
週末の生の営みは、人間的な命の思考では把握できない。新しい唯物論では、人間的なネットワーク、相関主義に対する批判が先鋭化する。人間的な関係、すなわち主客の関係で把握できる関係を超えたinter-actionなきintra-action、あるいはap-prehensionなきprehensionという無媒介的な「抱握」が主題となる。環境という人間を取り囲むべき緩衝材はもうない。剥き出しのエコロジー、環境なき共生というモノの世界で、わたしたちは直接出来事にさらされている。人間がいないということは、わたしとあなたとを区別することや、自分を外から隔て覆い隠しそれを内部として確保することができないということなのだから。

〔中略〕特に大事なのは、人を治めるに当たって、その見る力や知る力を狭い範囲に留めた神は、なんと恵み深い方なんだろう、ということだ。ほんとうは何千何万もの危険の真っただなかを歩いていて、それが見えるようになれば、人の心は錯乱し、気力は衰えてしまうだろう。人が落ち着き払っていられるのは、ものごとの真相から目を閉ざされ、身を囲んでいる危険をまったく知らないせいなんだ。(『ロビンソン・クルーソー』武田将明・訳 277)

モノを対象化しモノを媒介する人間のいない世界における無媒介性は、形相と質料や有機物/無機物といった、人間が思考するために用いられる「概念」をも廃棄する。思想はマテリアルとなる。形而上学における概念と物理学における物質は分け隔てなく同じマテリアルの位相に共生する。この新しい唯物論において、思想は微細な出来事のマテリアルの一員となる。モノは思想のマテリアルであり、思想はまた別の思想のマテリアルである。人間のいない世界にあっては、モノを対象として把握するための「概念」はその特権的な地位を失う。どんな思弁だろうとモノはモノでしかない。週末は終末について思考するのではなく、犇めきあうモノたちのなかに埋没しながら生きられる。週末は次の週、ただし先週とはまったく無関係な新たな週のはじまりでもある。ウィークデイに働いた人間は週末に休み、思弁的、あるいは投機的想像力は週末に働く。
だがそれでもなお、命ある人間という有限性から、たくさんの先人がのこしてきた清濁混流する毛細状の脈絡から、わたしは自由にはなれない。わたしは終末と週末のあいだで裂かれている。有限性から離れれば離れるほど、有限性は強くわたしを引き留める。モノとしての生という斥力は、わたしの命という引力を挫きはしない。わたしは死ぬ。それは目的論的で予定調和的ながら、しかし確実な終末(the end)だ。セクシーな生と凡庸な命のあいだで、人間としてのわたしは細々と営まれていくのだろう。命が尽きた誰かの生をマテリアルとして貪りながら。命が尽きたあとのわたしの生、誰かの思想のマテリアルとして生きるわたしを想像、あるいは思弁しながら。命はかすかに震えている、何某かの予震として震えている。

でもそのとき、あることを忘れていたのにあとで気がついた。すなわち、空腹はライオンをも手なずけるということを。三、四日、餌をあげずに、あの山羊を穴に閉じこめ、そのあと少し水を飲ませ、その次に少し穀物を食べさせていれば、あいつも子山羊のように懐いたはずだった。山羊は、大切にされればすごく人懐こくなる、利口な動物なのだ。(210)


ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

鑑別診断とあなたらしさを生きること

ラカンのわかりにくさを、度重なるラカン自身による精神分析のアップデートに求め、その十重二十重に仮設された言説群をひとつひとつ解きほぐし、撚れ・捻じれはそのままに、一本の経糸としてラカン思想を取り出して見せる労作。糸口となるのは神経症と精神病の別を判定する鑑別診断という問題系。以下、無手勝流のリーディング。
まずはわたし自身の印象をもとに、精神分析のおおまかなイメージをつかんでみよう。
人間のモデルを未病の神経症患者に求めたフロイトは、神経症と精神病とを鑑別したのち、治る見込みのある神経症患者だけを治療した。フロイトの代名詞、「エディプス・コンプレックス」は、神経症の心的構造を解釈する枠組みだった。精神病患者はこの原父殺しに端を発する物語のなかに居場所を持たない。
ラカンも基本線はフロイトと変わりない。言語のように構造化された無意識の(象徴界の)主体に働きかけることがラカン精神分析の基軸であり、大他者を欠きシニフィアンの連鎖から排除された精神病者は理論上の例外を構成する。エディプスの物語と去勢に始まるシニフィアンの運動からつまはじきにされた精神病患者は、並外れた人間、あるいは非‐人間という居心地の悪い場所にとどまり続ける。
だがわれわれにはドゥルーズ=ガタリがいた。この混声的批評家による精神分析批判は、精神病者の並外れた欲望を、普通の人間の欲望の配電図のなかに押しこめようとする暴力に向かった。ドゥルーズ=ガタリ神経症に代わり未病の「分裂病」を新しい人間のモデルに据え、(言語ではなく)欲望のレベルにおいて人間は、人間という概念そのものを解体していく存在であることを示した。これは一種の鑑別診断の否定だった。さらにはフェミニズム批評もここに重なる。ファルスをはじめとする男性中心主義的な精神分析な用語法、及びエディプスコンプレックスから排除された女性の不在を指弾するフェミニズム批評は、ヒステリー患者という女性表象をエディプスの男根主義的図式によって再生産する女性嫌悪の装置として攻撃した。さらにアメリカの自我心理学者やカウンセラーが事情を複雑化させる。父親に性的虐待を受けたとする幼女時代の記憶を患者に植え付け、父親を娘が訴えるという裁判が頻発した現象は、精神分析に対する悪評へと飛び火する。とどめに精神病理の世界において、精神疾患の症状を緩和、もしくは寛解に導く薬が登場し、病名のカタログに対応する薬の投与に終始する医療が進展している現状は、鑑別診断の放棄という問題を超え、精神分析をほとんど亡き者にするところまで脅かしている。精神分析の危機は、あらゆる角度から迫ってきている。
つい最近まで、精神分析に関する一般的な理解はおおむね以上のようなものだったはずだ。もしかしたら熱心なラカン読者は、並外れた欲望の世界に迫る晩年のラカンをそれ以前の言語論的構造主義ラカンから切り離し、前者の可能性を称揚していたかもしれない。だがそこでは、ジジェク等を経由して人口に膾炙した「サントーム」や対象aが、いわゆるシニフィアン鏡像段階といった批評理論の教科書に登場するタームとほとんど同時並列的に用いられる。まるで一貫した、全体化されたラカンの思想が存在するかのように圧縮されたラカンは、その難解さを語彙のレベルにとどめたまま、構造はいたってシンプルになってポピュラー化することになる。かくしてラカンの著作を十把一からげに扱う批評は、人間に意識できない無意識のすべてを、ひいてはあまねく社会や世界を、縦横無尽に解釈できる、機械仕掛けの神のような観すら呈することになった。この単純化こそラカンのわかりにくさの淵源である。
本書が鑑別診断に的を絞るのは、それが精神分析の中枢を貫く思想であると同時に、以上のような通俗的理解と衒学的かつご都合主義的ラカン主義者が犯している過誤を糺すうえでもっとも効果がみこめるテーマであるからだろう。まず鑑別診断の変遷を追うことで明らかになるのは、ラカンはひとりではない、ということだ。ラカンの思想を時期や概念に応じて切り分けながら相互に対決させる「ラカンラカン」と呼ばれるこの現代ラカン派による観測法は、ラカンのあらゆる著作を一貫したものとして扱う傾向に対する歯止めとなるだろう。だがこの「ラカンラカン」は鑑別診断においてのみ有効な方法ではなく、ほかのどのような概念においても見られる現象だろう。より重要なのは、鑑別診断という定点が、精神分析の哲学ではなく臨床における形式である、という点にある。ここで論じられるのはすなわち、ラカンに受け継がれたフロイトの鑑別診断という形式が精神分析という臨床の現場における試行錯誤の末に厳密さを増し、果てはその言語的形式を打ち破る、言語の「物質的次元」に至るまでの苦闘を明らかにするものだということだ。
鑑別診断は、神経症/精神病の別を診断する形式である。フロイトが臨床の場に持ち込んだ自由連想法と呼ばれる、患者自身が意識していない無意識のレベルを分析医が解釈していくプロセスは、神経症の患者の妄想を解釈する上で有効だった。しかし精神病の患者は分析医の知(無意識の世界を解読する力)を想定することができない。つまり精神病患者の場合、医者と患者の健全な転移関係が生まれないために、医者は無意識の主体としての患者と言語を介してうまく接することができない。それどころか、フロイトの臨床法では精神病患者をかえって悪化させてしまう可能性が高い。だからこそフロイトは治療を開始する前に鑑別診断を行ったのだった。つまり、神経症/精神病の区別こそが、精神分析の前提となる形式だということだ。
ラカンはこのフロイトの鑑別診断を引き継ぎながら、構造主義言語学を応用することにより、言語の働きを前景化したモデルを打ち立てる。このモデルはどのように神経症患者と精神病患者は異なっているのか、という鑑別診断を徹底するためのモデルだった。想像界象徴界現実界という三すくみの構造がある。言語獲得以前の前エディプス的母子関係を表す想像界、去勢後の痕跡である大他者(父の名という原シニフィアン)を中心にしたシニフィアンの連鎖が展開される無意識の主体の位相である象徴界、そして象徴界から予め排除された、言語モデルとして構造化されることのない残余の現実界フロイトの臨床の舞台となるのはこの中でも象徴界だった。ラカンはこの象徴界に大他者(父の名)が存在しているかどうかが、神経症と精神病の境目であると考えた。誤解を恐れずに短絡化してしまえば、精神病の患者の場合、母子関係に介入し、生まれる前からすでに存在する世界を受け入れるように迫る父が存在しないために、父に代表される自分とは異なる他者に由来するはずの知を想定できないということだ。だからこそ、精神病患者は治療できない。裏返せば、象徴界のなかに父の居場所が認められる神経症患者は治療できる。その父の場所を取り囲むシニフィアンを、父へと接続するように臨床の場で導いてあげればよいというわけだ。

しかしラカン神経症患者にも精神病患者と同様、臨床の場において症状を悪化させてしまう例を見出した。これは鑑別診断の失敗なのか、それとも鑑別診断の形式の不備なのか。そもそもフロイトやその他の精神分析医が報告している症例は、果たして正しく鑑別診断を行った結果なのか。過去の症例を詳しく見直していくうちに、ラカン象徴界を中心とした言語モデルを次第に疑うようになる。そもそも言語と同じように構造化された無意識という想定は無根拠な妄想なのではないか。いや、より正確に言えば、言語は言語によってしか説明できない、つまり究極的な意味を欠いている以上、言語の究極的な支えとなるものは欠けている、その欠如を妄想によって補うことによって人は生きているのではないか。その意味で、神経症にも精神病にも大他者は等しく存在している。ただしその大他者は失調している。人間が生まれる前から存在しており、そこへの適応を期待される象徴界の秩序は予め破たんしている。そのため、この破たんを覆い隠す妄想の用い方が神経症と精神病とを分けるのではないか。症状を説明することに重きを置く限り、父性的存在の失調を反復することになる。重要なのは症状を言語のモデルに解消することではなく、言語の向こう側に、言語からつまはじきにされている領域にある症状と患者の生とを妄想によって接続することではないだろうか。この世は狂っている。この狂った世の中にどのようにして適応するのか、その方法こそが問われることになる。この時点で、ラカンは無意識の主体としての患者の位置を修正する。患者は、狂った大他者の欠如を埋める欲望や妄想の主体となる。すなわち社会への適応の方法を知っているのは患者自身に他ならない。ただ患者自身がそのことを知らない、あるいは容認できないだけなのだ。かくしてこの世界に欠けているものをそれぞれのやり方で埋める方法を患者自身がすでに知っている、患者はすでにこの社会に適応しているということを患者自身に認めさせることが治療のゴールとなる。それは患者ひとりひとりの特異性、類例のない妄想や欲望を、患者自身が認知し、症状そのものを患者自身の特異な生として生きるということだ。
あなたはすでに社会の中に生きている。すでに社会に適応し、あなただけの居場所を持っている。それは社会が求めるような規範的な適応の仕方ではないのかもしれない。しかし社会のあり方自体が欠如を抱えた歪んだものである以上、あなたの適応の流儀にみられる逸脱は、この不完全な社会を考えるためのヒントになる。あなたの抱える妄想は、社会の壁龕にはめ込まれたあなたなりの生の証しなのだ。特異な生を認めること、その特異な「あなたの」生の主体となることがあなたには必要だ。規範的な共通言語や欲望に自分を再適応させるのではなく。
それでもなお臨床において鑑別診断が必要とされる理由はなんだろうか。一般化を拒む特異なシニフィアンにケースバイケースで対処する以上のことがなぜ必要なのか。なぜ神経症と精神病という古めかしい区分を、なお現代ラカン派は手放さないのだろうか。
それはおそらく欲望や享楽の次元にたどり着くためには、それでもなお言語が必要だからだろう。示差的な一般言語の運動のみが、特異なシニフィアンの所在とその機能を際立たせるからだろう。ただし言葉は選ばなくてはならない。鑑別診断とは、言語を用いて言語の物質的様相を探り当てる以前に、どのような種類の言語を用いるのかを決める、道具選びの予備的段階だと言えるだろう。解釈不可能な症状は、適切な言葉を探針として用いる限りにおいて浮き彫りになる。この意味で、精神分析は解釈を放棄したわけではない。鑑別診断という予備的な解釈によって選ばれ担保された分析の言語だけが、患者を分析の主体として構成できる。ちょうどジョイスの特異な言語の理解しがたさが、読者の知りうる言語による解釈の挫折を通じて理解されるように。解釈が硬い岩盤にぶつかって撥ね付けられるとき、分析家の言語はその核を包むために変質を余儀なくされる。精神分析は、言語の通時態を変質しながら生き延びてきた。脱構築は二項対立を突き崩すためのたんなる方法ではない。それは言語の限界を知りながらも、敢えてそれを信じる、信じすぎてしまうような情熱である。精神分析が生き延びるとすれば、鑑別診断という枠組み、その境界画定による限界の設定を墨守しながら、それでもなお限界を突破し続けるような臨床の言葉を探す営み、としてだろう。
かくして鑑別診断はひとつの思想となる。決して既知の言葉では間に合わない、臨床という試練にさらされ、撚れて捻じれて何度も切れそうになりながら、それでもなお連綿と紡がれてきた一本のしぶとい糸として。

スーザン・ソンタグ書評 「シモーヌ・ヴェイユ」

原文→http://www.nybooks.com/articles/archives/1963/feb/01/simone-weil/ 

Simone Weil
Susan Sontag
February 1, 1963 Issue
Selected Essays
by Simone Weil, translated by Richard Rees
Oxford University Press, $7.00


我らがリベラル・ブルジョワ文明の文化人カルト・ヒーローの面々(the cultural-heroes)は、リベラル・ブルジョワと敵対している。この作家連中は、何かに憑りつかれたように同じことを何度も繰り返し、礼節をわきまえない。つまりは力づくで印象を刻みつける――単に個人的な権威をちらつかせたり、知性の熱気に中てたりするのではなく、個人と知が陥った切羽詰まった窮境を明敏に察する力を使う。頑迷固陋、癇癪持ち、自己の破壊者――これこそ我らが住まうぞっとするほど礼節をわきまえた時代を証言する作家というものだ。礼節の問題というのはほとんど口調の問題といっても差し支えない。まっとうなことを語る、個性を消した口調で述べられた理念に、信を置くことなどまず無理なのだから。歴史上の経験と頭の中の経験とが自家撞着をきたして錯綜を極め、耳を聾されるあまり、まっとうなことを語る声が聞こえないような時期がいくらか存在する。そんなときまっとうさは、妥協、言い逃れ、ぺてんとなる。我らがいるのは、意識的に健康を追い求めるくせに、信じているものが病んでいるという現実感しかない時代だ。我らが敬意を抱くもろもろの〔主観的な〕真実を生み出すのは懊悩である。我らは、受難に際して作家が払った犠牲に換算し真実を査定するのだ――ひとりの作家の言葉に相当するひとつの客観的真実のようなものは基準にならない。我らの手にある複数の真実にはそれぞれ、殉教者がひとりずついなければならないのだ。
年長のドイツ文芸の領袖に「作家自身のみぞ知る」作品〔『ペンテジレーア』〕を委ねてしまった若きクライストが円熟期のゲーテに反感を覚えさせたもの――クライストの劇作や短篇の素材となった、病的なもの、キチガイじみたもの、不健康さの感覚、桁外れな苦しみへの耽溺――こそ、まさしく我らが今日高い価値を置いているものである。今日クライストは悦びをもたらす作家であるが、ゲーテのほうは、一部の人たちにとっては必修科目のようなものだ。同様にしてキルケゴールニーチェドストエフスキーカフカボードレールランボー、ジュネ――それからシモーヌ・ヴェイユ――といった作家たちは、その不健康な雰囲気ゆえに我らに対して影響力を有している。その不健康さが彼らの健全さであり、説得力の源である。
ひょっとしたら、現実感覚を深める営み、想像力の限りを押し広げる営みを作家たちが必要とするのに比べれば、真実はそれほど必要ではない時代もあるのかもしれない。作家のはしくれとして、わたしは、まともなものが真実の世界観だということを怪しんでいるわけではない。だがそれがいつも求められる真実なのだろうか? 真実を求める気持ちは不変のものではない。不変ならば、それは平安を求めているに過ぎない。なんらかのひずみとなる理念が、そんな〔平安と同義の〕真実よりも強力な知の推進力を有している可能性はある。そのような理念のほうが、〔人間の時代〕精神のさまざまな要求にうまく応えてくれるだろう。時代精神は変転するものなのだから。そういうときの〔平安と同義の〕真実が平衡だからといって、真実とは反対のもの、バランスを欠いたものが、ぺてんだというわけではないだろう。
こう言ったからといって、わたしには流行を非難しようというつもりはない。わたしは芸術や思想において極北を求める現代的嗜好の背後に隠れた動機の存在を強調しようとしているのだ。不可欠なことはただ、我らが偽善に堕さないということ、つまり我らがシモーヌ・ヴェイユのような作家の作品を読み、崇拝する理由を識るということだけなのだ。書籍やエッセーが死後出版されてからこのかたヴェイユが勝ち得てきた、たかだか数万人強の読者が、ヴェイユのさまざまな理念を実際に共有しているとは、わたしにはとても思えない。だがそんなことは不可欠なことではない――シモーヌ・ヴェイユカトリック教会との苦しみに満ちた昇華なき情事を共有する必要などない。神の不在というヴェイユグノーシス的神学を受け入れる必要などない。身体の否認というヴェイユの理想を奉じる必要はない。ローマ文明やユダヤ人に対するヴェイユの著しく公平さを欠いた嫌悪の情に同調する必要などない。キルケゴールニーチェに対しても同様だ。現代においてこの両者に憧れる人のほとんどが両者の理念に帰依はしなかったし、今もしはしない。我らがそうした毒に満ちた独創性をもった作家の作品を読むのは、その人ならではの影響力を、真面目さの模範を、自分が真実だと思ったものためとあらば自己犠牲を厭わない決然とした意志を求めているからであり、また――ほんの少し――作家たちの「見解」を求めているからである。ソクラテスに師事した、堕落したアルキアビデスが、自分自身の人生を変えることはできないしそんなことを望みはしないものの、心を動かされ、人間的に豊かになり、愛に満たされたように。だから感受性の強い現代の読者が敬意を払っているのは、そもそも自分の現実ではないし、とても自分の現実にはなりそうもない、〔認識可能な現象の背後にある時代〕精神の現実の水準なのだ。
模範となる生き方がある一方で、そうはならない生き方もある。模範となる生き方のなかには、我らに真似をするよう誘う生き方と、我らが距離を置いて嫌悪と憐れみ、崇敬の念が入り混じった思いを抱いて尊重するような生き方とがある。大まかに言えば、それは英雄と聖人の違いである(後者の言葉を宗教的な意味ではなく、美感的意味で用いるならそうなる)。そんな生き方、生き方の度重なる誇張と自傷行為の度合いが常軌を逸した――クライストのような、キルケゴールのような――生き方こそ、シモーヌ・ヴェイユの生き方である。想像してみよう。シモーヌ・ヴェイユの生き方の狂気じみた禁欲主義を、快楽と幸福への軽蔑を、高貴で荒唐無稽な政治的身振りを、念には念を入れた自己否定を、飽くなき懊悩の招来を。それにヴェイユの見た目の平凡さ、体の扱いの不器用さ、偏頭痛、肺結核も考慮しよう。生を愛する人々であれば、殉教に向かうヴェイユのようなひたむきさを真似できたらいいのにとは思わないだろうし、自分の子供、あるいは愛するほかの誰かがヴェイユのようになってくれたらいいのにとは思わないだろう。それでも、愚直さ(seriousness)を生と同じように愛する限り、我らはヴェイユのひたむきさに打たれ、それが糧となる。そんな生き方に払う敬意の中に我らが認めるのは、世界には謎があるということだ――謎とはまさしく、真実、つまりある客観的な真実なるものを確実に自家薬籠中のものとしている場合、退けられてしまうものなのだ。この意味において、あらゆる真実は表層的なものだ。それどころか、ある程度の(振り切れてはいない)真実の歪み、ある程度の(振り切れてはいない)狂気、ある程度の(振り切れてはいない)不健全さ、生の(全否定ではなく)部分否定が、真実をもたらし、正気を生み出し、健全さを創造し、生の質を向上させるのだ。
シモーヌ・ヴェイユの作品を翻訳した新刊『エッセー撰1934−43』で、そんなヴェイユはあまり表には出てこない。一篇の傑作エッセーが収録されている。それは冒頭のエッセーで、本書では「人間の個性」と題されている。執筆されたのは1943年、ヴェイユイングランドにおいて享年34で没した年だった。(ところでこのエッセーは当初、英国の雑誌『ザ・トウェインティース・センチュリー』誌の1959年5月号と6月号に「人権の誤謬」というタイトルで二回に分けて発表されたものだった。同誌を舞台にこのエッセーは、後学のためになる奇妙な運命に見舞われた。エッセーの第二部を掲載した6月号でヴェイユを擁護する特別記事が必要になったのだ。この特別記事は、同誌がこのエッセーを公表する決定を下したことに対する批判に応えたものだったが、回答する「理由は、このエッセーによって読者のなかには難儀な思いをしなければならなくなる人もいる」というものだった。たとえ『ザ・トウェインティース・センチュリー』誌ほどの良質な雑誌ですら、この種の作品に熱狂し感激する読者を集めることができないのだとしても、このエッセーの論じている書物が、イングランドの知的営みのうちでもせいぜい俗物レベルに関するものだということは疑いようもない。)次に触れるのは、本書の掉尾を飾るエッセーで「人間に課された義務についての声明の草稿」と題されている。これも先ほどのものと同じく、ヴェイユの没年に書かれたものだが、そこにはシモーヌ・ヴェイユのさまざまな理念の核心を占める問題が含まれている。残りのエッセーは特定の歴史的・政治的な話題に関するものだ――ラングドック文明論が二本、ルネッサンスフィレンツェにおける労働者階級の蜂起論が一本、帝政期ローマとヒトラー時代のドイツとを広範囲にわたって比較した長文のローマ帝国論エッセーが数本、それから第二次世界大戦や植民地問題、戦後の展望に関するさまざまな省察がある。ジョルジュ・ベルナノス宛の興味深いが取り扱いに注意を要する書簡が一通。エッセー数篇にまたがる、本書中最長の議論が展開するのは、ローマ(及び古代ヘブライ神権政治!)とナチスドイツの比較論だ。ナチスによるユダヤ人迫害の件については不愉快な黙殺が目立つシモーヌ・ヴェイユによれば、ヒトラーはナポレオンより、リシュリューより、カエサルよりましだという。ヒトラーの人種主義は、ヴェイユの言によれば、「ナショナリズムをいっそのこともっとロマンティックな感じで呼ぶときの呼称」程度のものだという。権力を揮うことと威圧的な力に屈することとが帯びる心理的効果に魅了されたヴェイユは、歴史の進歩を説くあらゆる理念を断固として否定するその姿勢とも相まって、国家的権威がとるあらゆる形態を、曰く「偉大なる獣」が顕現する現象として同一視するに至った。
シモーヌ・ヴェイユの『カイエ』(二巻本、1959年)と『古代ギリシャ人たちにみられるキリスト教の予兆』(1958年)〔邦訳は『前キリスト教的直観』。http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-00964-8.html〕の読者ならば、キリスト教ヘブライ起源を全否定すると同時に、キリスト教に独特なもの一切の由来をギリシャ精神にたずねようというヴェイユの試みは周知のことだろう。こうしたものごとの基礎を問う議論――プロヴァンス文明、マニ教カタリ派の異端信仰に対する崇拝も合わせて――がヴェイユの歴史エッセーのすべてを潤色している。キリスト教を歴史的に信頼に値するもの(sound)だとする、シモーヌ・ヴェイユグノーシス主義的な解釈を、わたしは受け入れることはできない(キリスト教を信仰する上での真実はまた別の問題だ)。またわたしは、ナチズム、ローマとイスラエルヴェイユが執拗に比較することに、気分を害さずにはいられない。ユーモアのセンスのようなものに過ぎない不偏不党は、シモーヌ・ヴェイユのような作家の長所ではない。ギボン(そのローマ帝国観をヴェイユは徹底的に否定する)と同じく、歴史作家シモーヌ・ヴェイユも偏っていて、こだわりは底なしで、腹立たしいほど曇りがない。歴史家ヴェイユは、端的にいってヴェイユの真骨頂ではない。歴史上生じる変化や変革の現象の数々をこんなにも根っから信じないものは誰でも、歴史家としてどこをとっても説得力に欠けるだろう。だからといって、今般刊行のエッセー群に微かながら歴史的洞察があることを否定するものではない。たとえば、全ヨーロッパ大陸及び白人種一般に対し、植民地を征服・支配する方法をドイツが応用する点にヒトラー主義の本質はある、というご明察である。(もちろん、直前にヴェイユは、これら――ヒトラーの方法と「平均的な植民地のやりかた」――はもとをただせばローマ帝国がモデルであると言っている。)
当撰集の第一の意義は、単純にシモーヌ・ヴェイユの筆から生まれたものにはそれがどんなものでも読む価値がある、ということだ。ひょっとしたら本書は、この作家と知り合いとなるきっかけにするような本ではないかもしれない。――わたしなら『神を待ちながら』が入門に最適だと思う。ヴェイユ心理的洞察の斬新さ、神学的想像力の情熱と細やかさ、解釈の才の豊穣に、本書ではばらつきがみられる。とはいえシモーヌ・ヴェイユという人となりは、彼女のほかのどの著作とも同じくここでも揺るぎない――読むに堪えないほど自分の理念と一体化した人間、つまり時代精神が蒙る現代特有の懊悩を目撃した、この上なく妥協知らずで厄介な証人のうちのひとりである、との正当な評価を受けているヴェイユという人間は。

ドイツのロマン主義について頭の中を整理

十八世紀後半、啓蒙主義に対する反動としてゲーテ頭目とする「シュトルム‐ウント‐ドラング」が起こる。もともと啓蒙主義も一枚岩ではなく、感性を重視する傾向もあったのだけど、この感性はあくまでも理性の管轄下にあった。すると感性的表現は型にはまり、道徳的になる。シュトルム‐ウント‐ドラングは、感性の後ろ盾となるものを「自然」に求めた。自然は道徳的な範疇を凌駕する。そこに自由な感性の現れを読み取ろうとした。啓蒙主義もシュトルム‐ウント‐ドラングも個人主義を重視するが、感性の扱いが決定的に異なる。焦点となったのがEmpfindsamkei。Empfindsamkeiはスターン以前から存在していた言葉だったが、『センチメンタル・ジャーニー』(1768)の独訳に際し、レッシングがsentimentalの訳語として提案し、人口に膾炙、ゲーテ『ウェルテル』の感情主義・主観主義と重なり合って一気に広まる。十八世紀末ごろには、sensitibityとsentimentalityはイギリスにおいて侮蔑語へと変わっていくけれども、ドイツのEmpfindsamkeiは真の感性的現れをめぐって制御する理性と解き放つ自然との間で綱引きが行われるトポスとなった。いずれにしても人間主義ゲーテと初期ロマン主義者シュレーゲル兄弟やノヴァーリスらはイェーナにて交わるし、英語圏ではこれらひとまとめでロマン主義者だと目されていたが、ゲーテロマン主義を次第に批判し始める。この辺がまだはっきりしていないが、ひとつはロマン主義が批評の運動でもあった、という点だろうか。ゲーテは作品の批評を無用なものと軽蔑していたし、『ヴィルヘルム』でも『ハムレット』の解釈は行うけれども、それは作品の有機的全体のなかにおけるひとつの役柄をよりよく理解し、作者の意図に接近するためだった。つまり作品を理解し演じるための解釈。対してロマン主義は批評を導入する。両者の差は、古典主義との関係で整理できるかもしれない。ヴィンケルマンに端を発しヘーゲルで完成されるギリシャという芸術の理想。対してロマン主義は、ロマン主義による古典文学の読み直しを通じ、ロマン主義文学史のようなものを構想していたし、ヘーゲルによる芸術の終焉テーゼに抗い、芸術の可能性を、古典主義を乗り越え追求していく。ゲーテには文学史的・批評的関心はなかったのかな。あくまで主観的、内なる自然。色彩論等の自然学も彼の文学と齟齬をきたさない。古典主義者ゲーテロマン主義ナショナリズム的側面を攻撃しもしたが、彼自身が国民文学の中核に収まるというアイロニー。さて、こういった経緯がさっぱりとそぎ落とされて感情主義となって、そこにロマン主義的なものやモラル、共同体主義らとごたまぜになってアメリカ・ロマン主義は成立するのではないか、という予断。さらにはドイツとフランスとの関係(ハイネによる紹介など)、アメリカにおけるフーリエ主義。

「タイプ」を書く音、タイプライターの打鍵音

奇しくもイギリス映画『つぐない』(Atonement)を最近見たところだった。ようやく結ばれたばかりの男女が、嫉妬と性に対する嫌悪感がない交ぜになった少女の嘘によって永遠に引き裂かれてしまう。第二次大戦の勃発による男の従軍と女の看護師としての献身が両者の邂逅を期待させるが、"come back"という男の帰還を願う女の思いは、イギリスが戦況において決してcome backしない歴史的事実によってすでに諦念に染まっている。そしてここにすべての発端となった少女によるつぐないの思いcome backが重なる。だがこの永遠に失われた男女の関係を取り戻そうとするつぐないに、男に対する秘めた恋心がcome backしてはいないとは言い切れない。多分にフィクションの混じった自伝という形式は即断を許さない。
だが映画というメディアのおもしろさはそこにはない。イアン・マキューアンの原作小説の翻案である本作は、目において欺き、耳において真実を聞かせる。タイプライターの打鍵音が一貫して通奏低音として響き、常に真実の場所の在処を語る。登場人物の一見辻褄の合わない台詞はすべてある人物にとっては真実の言葉として機能している。
ついでに言うと、本作においてつぐないはなかなか始まらない。決してつぐなえないことを少女は知っているからだ。それでも最期につぐないは始まる。自分の寿命が尽きる寸前で、まるで自らの喪の作業を先取りするかのように、他者のためのつぐないは始まる。
sentimental。そう、センチメンタルな作品だった。アメリカのsentimentsの根源にあるものが涙であり、喪の作業であるという常套に従うなら(これはイギリスの映画だが)、喪の終わりのなさはいつもセンチメンタルな形式の焦点となるだろう。喪は常にメランコリーと共にある。センチメンツの形式は実はいつも危うい。安全な物語形式、安心して共感が成立し涙を流せるセンチメンタル・ナラティヴの軌道に、アフェクトのけものみちを重ねること。感情の節制が断念される地点を探すこと。共感が途絶える場所を探すこと。
つぐないはもっとも人間的な営みでありながら、人間の能力の限界をさらけ出す。剥き出しなのに、生身を欠いた質感。わたしにとって、タイプライターの打鍵音は退却戦を戦う人間の、底抜けの抵抗を感じさせるものだった。