幻想と怪奇の英文学その2

久しぶりにこちらに書く。これから時々はこちらに書いてみようかと思う。

幻想と怪奇の英文学II: 増殖進化編

幻想と怪奇の英文学II: 増殖進化編

さて、今年の夏に執筆者のひとりから献本いただいたものの、なかなか読む時間がとれなかった『幻想と怪奇の英文学Ⅱ――増殖進化篇』をクリスマス前後に一気読みした。確かに増殖している。アメリカ文学や日本文学もちょいちょい入ってきているし、テーマもさらに広がっている。収拾がつかなくなる一歩手前で踏みとどまった、とも言えるかもしれないけども、巻末では第三弾の登場が予告されていることだし、異種格闘技イベントの運営にあたり統一ルールを糾う編者の剛腕は今後も期待されるところだろう。
前作と同じく、リアルガチの専門家を挑発するというよりは、ふだん専門家ばかりを相手に書いている英文学者が素人をいかに誘惑しつつ学術的知見をいかに披露すべきか、真摯に七転八倒する一冊に仕上がっている。作品の魅力を引き出す、という共通理解はちゃんとあるように思う。まずは本書を手にとって読ませた時点で「技あり」、続いてここに登場する作品を熟読吟味させた時点で「合わせ技一本」となる。
以下、大まかな内容と若干のコメントを付している。断続的に書いたものなので分量にばらつきがある(少ないからといってつまらなかったわけではない)。批判は著者個人に向けたものというよりは、英文学研究全体、人文学の未来に向けたものと考えていただけるとありがたい。個人を貶めることに関心はないので。
第一部「ゴースト・イン・リテラチュア」の劈頭にジョイスの「姉妹」の翻訳(下楠昌哉)を目撃してまず面食らうところだが、勘を働かせて『幻想と怪奇Ⅰ』の「姉妹編」宣言とでもしておこうか。もとよりこのリアリスティックにダブリンを描いた短篇集『ダブリナーズ』に、死者や幽霊の気配が漂っているのは周知のとおり。読者諸氏の平凡な日常生活から怪異の世界への渡しとしては、心筋を強張らせることもない、ほどよい塩梅の飛躍ではなかろうか。
続いて、田多良俊樹「薔薇十字会員の亡霊を降ろす/祓うこと――ジョイス「姉妹」の改稿とイェイツへの応答」は同短篇におけるどこか奥歯に挟まったような物言いの背後に、薔薇十字思想の存在を認める。この短篇は、オカルティズムの虜となったアイルランドの先人をフリン神父に重ねて葬る、野辺送りの一作である、という。確かにこの次世代アイルランド知識人にとって、民族主義者イェイツは乗り越えるべき壁であったろう。しかしながら、主人公とイライザが口をひそめて神父の秘密を公然の秘密として仄めかすとき、この亡霊=イェイツは著者の解釈をなぞるように除霊されることはなく、なおも亡霊のまま徘徊しているようにわたしには思われてならない。
鈴木暁世「乱世のなかに夢幻を描く――英国に渡った郡虎彦と『義朝記』」は『保元物語』をベースとした戯曲『義朝記』にギリシア悲劇の影を見る。日本の物語が西欧に移植されるときに、ギリシア・ローマの伝統が重ねられることはままある。いや、そもそも日本の古典的想像力は西欧のそれとはさして距離がないのではないか、もともと相性がよいのではないか、という気さえする。まったくの無知の身だが、両者の接点について考え直す上でよいとっかかりになる論文であろう。
小川公代「『フランケンシュタイン』の幽霊――伝承バラッドの再話として」は18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスに起こったバラッド・リバイバルを背景としてメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』を再読する。楽しんで読んだ。『フランケンシュタイン』の構造とバラッドを同時に知ることができる。口承伝統に掉さすものとしてよく知られているところではグリム兄弟の仕事であろう。ナショナリズムを背景とした口承伝統の蒐集は、文献学や解釈学、美学の勃興と密接な関係にある。まだまともに研究されていないが、19世紀前半のアメリカ文芸にも同様の欲望はあった。目に見えない絆を強く信じるには口伝えの故事を温める、あるいはでっちあげるのが手っとり早い。
岩田美喜「ぼくらはまた逢うだろう」――ディオン・ブーシコー『コルシカの兄弟』における幽霊の〈声〉と〈すがた〉」は1737年劇場検閲法以降、セリフ中心から視覚効果中心へと上演の主流が移行したいきさつを視野に収めつつ、神秘性がはぎとられ視覚的に消費される亡霊を描くアイリッシュ作家の『コルシカの兄弟」(1852)を読む。この俗悪なメロドラマには、近代的な視覚性を前面に押し出しつつもなお古き良きシェイクスピア劇が有していた亡霊による約束の言霊が宿っている、という。著者は亡霊の予言をオースティンの「発語内行為」の一種として扱う。しかし、ここには約束の反古が含まれないのだから、スピーチ・アクト理論ではなく(オースティンは日常語を対象としているという事情もある)、約束とその成就を意図する予弁法(prolepsis)として解したほうがよいと思う。
白川恵子「フィラデルフィアの幽霊屋敷――マット・ジョンソン『ラヴィング・デイ』における混血アイデンティティの呪縛と解放」は、アメリカン・ゴシックの定番である人種混交というテーマを現代アメリカの作家、ジョンソンがいかに描くか、プロットを追いつつ明らかにする。異人種間結婚禁止を違憲であるとした1963年の判決とこれを記念した「ラヴィング・デイ」を背景に、今もなお人種間の軋轢絶えないHouse Dividedの現状を幽霊屋敷というポー由来のトポスに託す。幽霊屋敷は解体されても、異人種カップルの亡霊はこのトポスに変わらず出没し続ける。幽霊屋敷というトポスをめぐる文学史もおもしろいかもしれない。
「第2部 幻獣/変身/テクノロジー」は九篇。
大沼由布『甦る鳥たち――古代中世ヨーロッパにおける鷲とフェニックスの描写』は、鷲の再生譚が幻獣フェニックスの伝承と相互補完的に語り継がれていたと教えてくれる。とりわけ動物寓意譚『フィシオロゴス』と動物に神の意図を読む『動物譜』の魅力は存分に伝わってくる。このあたりの知識を近現代の研究者も仕込んでおかないと、隠れたる意匠を見逃すことになりかねない。文化の違いと伝統の力をなめてはいけない。と同時に、ファンタジー(ゲーム)好きの人にはたまらない内容だろう。
小宮真樹子「クエスティング・ビーストの探求――トマス・マロリーの不思議な動物」も、ドラクエをはじめとするRPG好きは必読の一章だろう。マロリーの『アーサー王の死』に登場するquesting beast「吠える怪獣」は、正体を明かすことのない謎のままにとどまる。しかし物語自体もさまざまな謎を解明することなく閉じる点に鑑みれば、この作品の彩なす「咆哮」(questings)は、フランスの散文ロマンスやイングランド年代記などの種本を組み合わせた読者をはぐらかす物語そのものの「彷徨」(quest)へと一気に飛躍する。少々安易な解釈なのではないかとも思うが、門外漢にはおもしろい。
遠藤徹スフィンクスの笑み――H・G・ウェルズ『タイムマシン』と人間の未来」も、『タイムマシン』に登場するスフィンクスを物語全体のテーマを集約する提喩として読む。『オイディプス王』と登場し、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これは何か」と問いかけるスフィンクスが未来世界への入り口に鎮座するこの物語は、人間の定義の揺らぎを語る。つまりはダーウィンの進化論を経て、世紀転換期の大英帝国を襲った人間退化論の言説がこのテクストの背骨を成している。退化論を『タイムマシン』に重ねる読みはとりたてて珍しいものではないが、『宇宙戦争』や「百万年後の人間」、「人間の絶滅」とも比較検討することを通じて、退化への不安ではなく、退化の果てにたどり着いたのが人間という種であったという悲観的な人類史の追認とする解釈は新しいのかもしれない。進化論・退化論は環境への適応の理論なのだから、人間の形態の変貌ではなく、適応する環境の議論をしっかりしなければならないのではないか、とは思う。人間の未来に太古への退行をみるウェルズの非人間的想像力は興味深い。
石井有希子「或るモノとの「遭遇」――解剖学劇場の『ジキル博士とハイド氏』」はハイドの謎めいた顔を形容するsomethingの謎を剔抉すべくテクストの解剖に挑む。ジキル博士の実験室が元来、デンマン博士の解剖室であったという設定に注目し、死体を切り分け、人体を「分かる」ことを目指す解剖という営み、そして計測と実験によって不分明なものを明らかにしていく科学の営みが等しくsomethingをクリアな知に組みこむヴィクトリア朝の欲望と密接な関係にあったという背景を固める。この辺りは高山宏の一連の著作が繰り返し説いているおなじみの説なので言及しないでよいのか気になるところ。だがここで焦点となるのは、somethingをつまびらかにしようとする欲望が成就することの不可能性、観察の盲点、そしてそのような真実を暴こうとする行為が孕む暴力性である。somethingは暴かれることなくテクストのクリプトを構成し、いまもなお文学的想像力の源泉となっている。
桃尾美佳「ファリントンはキーボードの夢を見るか――ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』の「複写」と複製機械」は、『ジョイスの罠』における南谷論文の「相棒」、あるいはcounterpartとして読むのが適切だろうか。微視的レベルでの機械的複製を明らかにした南谷論文に比し、本章の主眼はテクストの構造のほうにある。ファリントンが自分自身の発言を反復しつつ、これに若干の修正を加える場面に、オリジナルを凌駕するコピー、そして機械の原理のなかに幽閉される限りにおいてのみ存在しうる人間性・主体性を読む点が読みどころだろう。しかしこれが主体性のようなヒューマニスティックなタームで記述できるものなのかどうかは疑問が残る。また、仕事上の「書写」と再話を同一線上においてもよいのか。書き言葉と話し言葉の差異と同一性という観点から、語り手に語られるファリントンの声による再話という紋中紋的複写の構造に注目するのも一興かもしれない。声の機械化が進む時代でもある。
有元志保「重なり合わない分身と分心――ウィリアム・シャープ尾崎翠「こほろぎ嬢」をめぐって」はスコットランド作家ウィリアム・シャープの創作実践とこれをモデルとした尾崎翠のテクストに分身/分心というテーマを重ねる。男性シャープがフィオナ・マクラウドという女性作家に扮して創作活動をしていたという事例だけでも興味深いが、マクラウドというペルソナにシャープが抱く恋心に近い同一化願望がその創作原理の根源にあったとする分析には瞠目せざるをえない。一体化の願望は嵩じて、シャープはマクラウドに宛てて恋文のようなものを投函するに及んでいる。対して尾崎は、しゃあぷとまくろおどの関係を親密でありながらも距たりのある関係として描く。自身の分身であるこおろぎ嬢に対しても一定の距離をおく。尾崎の対象への態度は、シャープに比べるとやや自重気味のようだ。尾崎の姿勢は、九鬼周造のように、対象との同一化を目指さず踏みとどまり、そこに想像力のたゆたいを許容する「いき」な態度、とでも言えるだろうか。
島健「ラジオの描くモンスター――ルイス・マクニースダークタワー』と大衆の問題」はモダニズムにおける知識人の大衆嫌悪、特に知識人階級である「ハイブラウ」でも親近感を覚える「ロウブラウ」でもない、消費文化の担い手である「ミドルブラウ」の忌避という文脈において、マクニースのBBCラジオドラマ『ダークタワー』を読む。BBCというメディアの登場がモダニズム文学の台頭と同期するという点になるほどと膝を打つし、二〇世紀の騎士道物語の展開にも関心を惹かれる。しかしここで論じられている大衆=ドラゴンが「モダニズムの病」や「モダニズムの限界」を示すためのアレゴリーである、とする解釈には賛同できない。大衆=モンスターの表象には「都市化」をはるかに凌駕する長い歴史があるし、エリート対大衆という対立構図も同様である。論の展開を見る限り、「モダニズムの」という形容はもっと大きな「西洋の」に置き換えることができるのではないか。歴史上相対的に特殊な要素といえるのは、これがラジオドラマである、という一点だけであるように思われる。
高橋路子「赤ずきんはなぜ狼になったのか――アンジェラ・カーター「狼三部作」は、人狼伝承の系譜の中にカーターの再話を位置づけ、その特異性を明らかにする。人狼が次第に狼として語られるようになり、二〇世紀後半フェミニズムが台頭する時代には狼を凌駕する赤ずきんの強さが焦点化される。このような口承伝統と小説の関係に関する記述は、第一部の小川論文とも共振するだろう。カーターは人狼伝承を復活させたうえで、赤ずきん人狼として描く。ここにオウディウスから始まる多様な口承伝統の合流が指摘される。この人狼少女にどのようなポテンシャルがあるのかについては今後の研究を待ちたい。
金谷益道「鴉の娘の「新しいおとぎ話」――オードリー・ニッフェネガー『レイヴン・ガール』」は、鴉の雌と人間の男との結婚という「異類婚姻」譚の系譜、それから変身譚の系譜を参照しつつ、『レイヴン・ガール』の不気味さを説く。通常、異類婚姻譚は変身譚とセットになっていて、人間ならざるものが人間に変身し婚姻を遂げる。しかしニッフェネガーの作では、鴉は人間にはならないし、そもそも両者は言葉が通じない。おとぎ話の定型に則りつつも異様な雰囲気を残したまま話は進む。このつがいから生まれる娘は一見人間の姿をしているが心は鴉であり、「鴉語」しか喋ることができない。人間にも鴉にも馴染めない。少女は現代科学の力を借りて鴉に変身することを望む、というあらすじだ。非常に興味深い分析が並ぶが、この少女の変身願望を、解剖学的性とジェンダー自認とのあいだのずれ、トランスセクシュアルトランスジェンダーの隠喩とする読みには疑問が残る。これは高橋論文とも関連するが、人間ならざるものへの変身願望には、ヒューマニズムに対する根源的な批判と人間の限界に向かう想像力のポテンシャルがあるようにわたしは思う。
「第3部 災疫のなかの奇跡」は四篇。
小川真理「中世ヨーロッパの教訓的例話集にみるイノセントな子供たち――『アルファベット順逸話集』の奇蹟譚」はフィリップ・アリエス『〈子ども〉の誕生』を紹介するとともに、その異論を示し、またその異論の実例のひとつとして中世の教訓例話集を検証する。アリエスの論は、一七世紀に子供という概念の萌芽が見られ、一八世紀に確立するとした、国民国家論を始めとする「近代の発明」論の一種(われわれが今日当たり前だと思っているものは前近代には存在しなかった、という論法)だといってよい。アリエスの子供論は児童文学の出現をめぐる言説にも敷衍されて、一八世紀のチャップブックを子供向けの著作の走りとする説が定着している。しかし幼児教育を狙いとした教訓的な作品は中世にも存在していた。そのため、児童文学という商業的カテゴリーは存在しなかったとしても、中世に「幼年時代」という区分がなかったと言い切ることは難しい。むしろ聖性を体現する「無垢な子供」に、罪深き大人たちを律する積極的な役割が与えられている点に著者は注意を促す。
金津和美「悪、破局、そして笑い――災害の物語としてのジェイムズ・ホッグ『男の三つの危険』」は、ウォルター・スコット歴史小説に範をとった野心作でありながら、壮大な失敗作である『男の三つの危険』における自然と超自然の関係に注目する。川島論文が論じた騎士道物語がモダニズムに掉さしているとすれば、この騎士道物語はスコット流の歴史小説を目指しながらも近代の手前で迷走に次ぐ迷走を重ねる。人間の英雄性は後景に退き、魔術に翻弄される人間の無力の背後には自然のきまぐれがある、という。いわば、自然という運命への抗いがたさが、人間を翻弄する超自然的な魔術に託されている。このため、ミハイール・バフチーンのいうグロテスク・リアリズム、つまりは祝祭的な笑いの原理が超自然的な魔術を介して繰り返されるオークウッド塔の脱線こそは、この作品の語りの混乱を、そしてその祝祭性を象徴している、という。しかしながら、魔術に代表される「超自然」と動物性や天変地異として論じられる「自然」とのつながりがもうひとつつかめない。オークウッド塔において魔術によって「動物(あるいは自然)」、「本性に見合った姿」に変えられた訪問者たちが「修道僧によって救われ、自然(もと)の姿に戻」る、とあるが、動物が自然なのか、もともとの人間が自然なのか、人間性はどういう位置づけなのか、わからない。わからないが、この辺の混乱の原因はテクストのほうにあるのだろう、ということはわかる。
山口和彦「崇高の向こう側――コーマック・マッカーシーザ・ロード』」は、終末論的な世界で善悪の観念と生き残りのあいだで葛藤する親子の物語を丁寧に語りなおす。だが、「恐怖的崇高」の議論は不十分であるように思われる。神に見捨てられる恐怖と「崇高は……ある概念と一致するはずの事物を、想像力が提示しそこなったときに生じる感情」というリオタールの引用はつながらないし、そのあとに続く作品からの引用の説明としてもずれている。通常の意味では認識できない、感覚できない、しかしまるで感性的経験であるかのように自由を感じる、という点こそが崇高論の勘どころだ、とわたしは理解している(しかし崇高論は膨大な蓄積があるのでどこに依拠するかで話は変わってくる)。美や崇高という美学的=感性学的概念を負の感情から論じるのはややトレンドになっている感もある。しかしまず崇高は人間の自由、人間という概念のありかたと深い関係にあり、だからこそ今度は負の崇高論においては、人間の自由という枠組さえ超出するような(非人間的な)自由が問題になっている、という点を踏まえるべきだろう。とはいえ神なき世界、終末論的世界、所与の善悪がご破算となった世界におけるサバイバルというテーマとこのような感性論的転回以後の負の崇高論、非人間的崇高論はよく馴染むだろう、という直観は一読して得られた。
臼井雅美「時空をかける女たち――ルース・オゼキ『有る時の物語』」は、思想的にはハイデッガー道元の影響(存在は時間である)を受け、文化的バックグラウンドとしてはアメリカ白人と日本人という出自をもつ作家のトランスナショナルかつ世界同時多発的な物語を解説する。東日本大震災や第二次大戦、アメリカ先住民の殺戮を始めとする出来事、そして登場人物たちがメディア・エコロジーと自然環境を介して複雑に交錯する。いや、その存在の在り方は、媒介されているというよりは、ほぼ無媒介的にあらゆる他者にさらされているように見える。非常に難解だが、おもしろそうな小説だと思う。
「対談 幻想と怪奇の匠・平井呈一の足跡を追って (東雅夫×下楠昌哉)」では平井呈一の創造的翻訳、あるいは翻案・リライトの使命について語られている。
さらに、前作に引き続き東雅夫によるメール・インタビューという形式をとった執筆者紹介が収録されている。
以上、あまりまとまりはない書評となったが、一冊を通して読むことで、時代や地域の違いを超えて、さまざまな事象が共振していることがわかる。やはり、専門の海に深く潜ることは学者としては当然のことではあるけど、こうして専門外のものを読むことによって自分の立ち位置を知る経験も欠かせない。わたし自身門外漢であるため、的外れなコメントをしている可能性もある。容赦ない学術的反論はもちろん歓迎する。


編集文献学

明星聖子+納富信留編『テクストとは何か: 編集文献学入門』。単一の作者や決定版、作者の真意なるものは(理論的にではなく)実証的に存在しない。作者の意図や作品という概念を根本から問い直す一冊。訳書『グーテンベルグからグーグルへ』の続編といっていい。
問うべきテクストはひとつではなく、複数存在している。だからテクストを前にした論者は、テクストの選択とその限界に自覚的でなければならない。
作者の意図も同様。作者の意図は、書く前、書いているとき、書いた後、死ぬ前、など局面に応じて移り変わるし、意図を示す証拠を残していたとしてもそれを宛てる相手によっても変化するかもしれない(経験的にもよくわかるはず)。
作者なるものは、複数の意図の間で移ろう一貫性を欠いた存在であると同時に、編集者や読者、近親者、書写人、印刷工、劇団員など無数の人間が共住する場所でもある。実在する作家を名指しつつ、著者名はそうしたさまざまな条件を便宜的に統合し、市場を流通するブランド名として機能する(作者機能)。
このように、テクストも作者もそれらに対する読者の解釈も、権利上、単一のものには限定されない。しかしだからこそ、読む営みは常に豊穣となりうる。
本書の俎上に上るのはプラトンゲーテ、聖書、チョーサー、ムージルシェイクスピアワーグナー、フォークナー、ニーチェカフカ。文学だけではない。哲学もオペラも神学も、あらゆるテクストを問い直さなければならない。ドイツ文献学の先端に学ぶ。

フュリオサの憂鬱

帰りの機内でも『マッド・マックス』を見た。少々感想を。
水や石油が枯渇した条件下での統治は、物質的条件に対する権力を握ることに依存する。イモータン・ジョーは民衆の資源への崇拝を象徴化した存在にすぎない。そしてフュリオサの凱旋は、同じ資源崇拝を基盤とした体制を現状維持する以上の意味を持たないだろう。イモータンの死体を群衆が引きちぎりさらっていく様はまず間違いなく中世西欧世界の聖遺物争奪戦に準拠する。だがこのばらばらの断片と化すイモータンこそ、物質が民衆の信仰の「資源」であるということの残酷なアレゴリーであるように思える。「イモータン」という宗教を体現したジョーの死後、この「イモータン」の衣鉢を継ぎ、体現すること。フュリオサに他の選択肢はない。
現実から離れてみよう。男のいない女だけの共同体「緑の土地」への回帰を目指したフュリオサの夢が夢足りえたのは、まさにその地が新しい生活の物質的基盤となりうると思われたからだろう。そしてその夢を挫くのも緑の土地の成れの果て、灰色の汚泥という物質的な現実だった。フュリオサのユートピア的なフェミニズムは物質的現実の前に敗北する。イモータンの支配する土地へのUターンを勧めるマックスの提案、並びにその提案を無条件に飲むフュリオサの決断は、夢見られた女のユートピアの廃棄であるとともに、女を収奪するシステムの内部にしか人間が生きるための糧、資源、物質的条件はない、という現実の追認でもある。
結局、夢は現実に差し戻される。いや、拠り所となる物質なくして夢など見ることはできない。振り返れば冒頭、滝のごとく降り注ぐ水に狂喜乱舞する群衆に、イモータンが水を欲望しすぎることの危険を説くシーンがあった。イモータンは民衆が信じている「モノ」を正確に理解し、危惧していたのではないか。イモータンは「モノ」を代表しているに過ぎない。*1だからイモータンを倒し凱旋するフュリオサに民衆が期待するのは、これまでと変わらず物質を制御する体制をそのまま引き継ぐこと。変化は望まれていない。革命はなにひとつ起きていない。フュリオサの凱旋は、かつてイモータンが体制を打ち立てた即位の瞬間を反復・継承しているに過ぎない。信仰の起点となる物質的条件は、この世界においてもともと限られている。フュリオサの改革は、物質の安定供給を願う保守的な大衆の前に限定的なものにとどまるだろう。戦争はなくならない。残された限りある資源を奪い合う世界である限り、争いが絶えることはないだろう。*2豊富な資源のある世界でも戦争は絶えないのだから。女性を資源として収奪する体制の変革は困難を極める。男もこの資源戦争のための資源として収奪されているのだから。結局、幸せになれるのは、男女の別なく資源を制御する力をもつものの周辺にいる人々に限られる。ユートピアへの夢から覚めたフュリオサがこの現実に気づくのはこれからだろう。足早に凱旋の歓呼の輪から立ち去るマックスだけが、この堂々巡りを予感しているように思えた。イモータン・ジョーは、この決してなくなることのない堂々巡りを体現している。いや、むしろイモータン・ジョーはこの不死(immortal)の体制につけられた名前なのだろう。フュリオサもまた、この不死の体制を束の間代表し、信仰を生み出す「モノ」に過ぎない。

*1:イモータンの支配は知に裏打ちされた言語能力にも依っている。彼はしもべである「戦争機械」ウォーボーイズを "mediocre" と形容するが、ウォーボーイズはこれを賞賛の言葉だと思っている。死地に向かう仲間を称えるとき、彼らは "mediocre" と叫ぶ。

*2:皮肉にも「聖遺物」となるジョーの死体をばらばらにして奪い合う群衆の狂喜乱舞のさまは、この終わりなき資源争奪戦争の縮図となっている。

想起の文化

思想 2015年 08 月号 [雑誌]

思想 2015年 08 月号 [雑誌]

目次→http://www.iwanami.co.jp/shiso/

帰省中に岩波の『思想八月号 想起の文化特集』を通読した。収録論文の概要は以下の通り。
記憶と歴史をめぐる内外の研究動向を概観した栗津論文。
忘却モデルよりも想起モデルのほうが未来志向であることを論証するアスマン論文。
求心的な慰霊地をもたない海洋上の慰霊という離散的な想起のモデルを提示する西村論文。
日中戦争における対日協力者がいかにして記憶されてきたか「順口溜」という歌やオーラルヒストリーから探る石井論文。
変わりゆくひめゆり平和祈念資料館の展示法を解説する普天間論文。
ホロコーストの記憶を遠心的に街路に配置し、空間的な想起経験として構築するドイツの試みを紹介する安川論文。
広島原爆ドームの保存反対から保存に至る過程と補修が終わった後原爆投下後の時間までが凝固するというアイロニーを記述する福間論文。
ソ連の対独戦戦勝を記念する「スターリングラード」の記念碑のありかたをめぐる論争を扱う前田論文。
ジェラール・ノワリエル『フランスという坩堝』を中心にして、サルコジに代表される移民第一世代の「移民現象が国民的な記憶の正当な一部であるという考え方」と新移民に対して烙印を押すという逆説的な操作を問題にする大中論文。
植民地主義の歴史が生み出すマリアナ諸島チャモロ人の記憶について論じるカマチョ論文。
ボスニア、特にサラエボにおける内戦と民族・宗教の多様性、及びパレスチナ人がイスラエル人として同化していく動向にネーションの問題系を超える複雑な集団アイデンティティの問いをみる立田論文。
リクール『歴史・記憶・忘却』が歴史と記憶の問題系を包括的に扱いバランスをとることを目指した大著であることを指摘、グローバルな記憶、外部記憶、そして過去の死者に対する負債の問題を再考する必要性を説く佐藤論文。
この佐藤論文の末尾における負債の倫理は、広島原爆慰霊碑に刻まされた「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の碑文を退け、むしろいつまでも眠れない死者との共闘、慰霊や鎮魂では済まない想起の倫理の要請を説く末木の巻頭言http://www.iwanami.co.jp/shiso/1096/kotoba.html へと差し戻され、過去ではなく死者に対する負債の倫理を想起しなおすことになるだろう。
最近「ごはんをつくって待ってくれるおかあさん」を反戦の動機のひとつとして挙げた大学生のスピーチが議論を呼んだのは記憶に新しい。前田論文における以下の論述は、このような素朴な心情がはらむ政治性を想起・再考するうえで参考になるだろう。

マーティン・メイリアによると、独ソ戦開始まもなく社会主義国家防衛から「母なるロシア」防衛へとイデオロギー上の転換が生じた。例えば、独ソ戦反帝国主義戦争ではなく、「大祖国戦争」と名付けた点にもそれが現れている。一八一二年のナポレオン戦争「祖国戦争」は、国民的戦争としてロシア人の記憶に深く刻まれていた。実際、西部の国境は呆気なく突破され、ドイツ軍の支配下に置かれたため、前線となったのはロシア中部地帯だった。スターリン「国民は我々共産主義者のためには戦わないが、母なるロシアのためには戦う」とはっきり認識しており、社会主義のための戦いというスローガンを捨て、国民の愛国心に訴えることにしたのである。この転換を物語るのが、一九四一年に現れた国民に志願を訴えるプロパガンダポスター「母なる母国が呼んでいる」である。このときまで、ソヴィエト政権は決して寓意的女性の視覚イメージを用いなかった。初期ソヴィエトポスターの図像学的分析で知られるヴィクトリア・ボンネルは、母なるロシアMatushka Rossiiaの像を帝政ロシア二月革命政府が好んでいたため、ソヴィエト政権としては避けざるをえなかったと指摘している。新しい国家のシンボルは過去との決別を意味すべきだったからである。にもかかわらず、勝利の女神に端を発する寓意的女性像を復活せしめたことは、国家存亡の危機に瀕していたことを如実に示す。(163-64 強調筆者)

砂川判決とは何か

磯崎陽輔総理補佐官HP「憲法解釈変更の4つのキーワード」(7/19) http://isozaki-office.jp/ について論じてみたいと思う。適宜、砂川判決全文→http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19591216.O1J.html も参照されたい。なおわたしは法学者でも憲法学者でもないため、以下の論述には事実誤認が含まれる可能性があることを予め付記しておく。誤記も含め、ご叱正を仰ぐ。

まず、磯崎氏は砂川判決を司法による自衛のための措置の認定と解釈、個別的自衛権集団的自衛権の区別は国際法(実際は国連憲章)の概念を持ち込んだものであるとし、その区別自体に疑義を呈している。国際情勢が変化している今、我が国の法制には関係のない「個別的自衛権」という概念の壁をこえて、砂川判決に即したより包括的な「自衛のための措置」をどのようにしたら最小限度にとどめることができるのかという問題を焦点にして論議を深めることが重要だと磯崎氏は言う。しかしこれは、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」とする砂川判決と矛盾する。砂川判決は自衛権を漠然とした概念ではなく、国連憲章に照らして定義していることをまずは忘れてはならない。
このような砂川判決の恣意的な読解はひとまず措く。磯崎氏がもっともこだわるのは、砂川判決の「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」という箇所である。この箇所をもって、磯崎氏は国際情勢の変化に応じて自衛のための措置を解釈しなおすことができる、と考えている。だからこそ磯崎氏は、安保法制が従来の憲法解釈と齟齬をきたすかどうか、「形式的に」合憲かどうかを問うのではなく、具体的な国際情勢の変化が認められれば憲法の解釈変更は「適当」であり、したがって安保関連法案も合憲になる、という論法を重視するのであろう。ひとまず砂川判決が解釈改憲を認め、次にそれを必要とする国際情勢の変化が仮にあると仮定しよう。しかしその場合、砂川判決の「国際情勢の実情に即応して適当と認められるもの」には、「この国の平和と安全を維持するための安全保障」という目的と、「その目的を達するにふさわしい方式又は手段」という限定がついていることを忘れてはならない。問われるべきは次の三点である。まず国際情勢の変化が具体的に喫緊のものとして本当に存在するのか。次に本法案は平和と安全を維持するためのものなのかどうか。さらに本法案はその目的を達するのにふさわしいのかどうか。政府は、従来の日米安保体制では「国際情勢の実情」に対応できなくなったことを説得したうえで、その手段が平和と安全を維持する目的としてふさわしいことを国民に明示する必要がある。おそらくはだからこそ、今頃になって中国脅威論がさかんに取り沙汰されているのだろう。しかしながら、仮想敵国が中国であり、過日の総理ご自身の説明における「離れ」に該当する地域が尖閣近海のプラントだというのであれば、もはや新法制は不要であり、従前の自衛のための措置で十分だとわたしは考える。
以上は、砂川判決が憲法解釈を国際情勢の変化に応じて柔軟に変更し、適宜自衛のための措置を講じることができるという司法判断であり、かつその司法判断が立法に対するお墨付きを与える根拠である、という磯崎氏が設定する前提を尊重した議論である。だが砂川判決は果たしてそのような種類のものなのだろうか。というのも砂川判決は、日米安全保障条約という国際的な法秩序に対する判断能力を留保しているからだ。

ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

安全保障条約の違憲性を判断するにあたり、砂川判決は、案件が明白に違憲であると断言できないので、今回は国内法の司法権を管轄するに過ぎない司法の守備範囲を超える、とやや及び腰に述べている。国際間の条約を結ぶ内閣とそれを承認する国会がまずは当該事案の一次的な責を担う。しかし看過できないのは、最終的には「主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべき」としている部分だろう。しかもその主権在民の原則は、安全保障条約およびそれに基づく政府のふるまいが違憲かどうかが前提となる事案以外の場合にも当てはまるとしている。つまりここで司法は、あらゆる政治的判断の最終審級は、立法府でも司法でもなく国民である、と述べている。政治判断を下すのは国民であり、司法は政治的判断には関与しない。この政治的判断を国民が支持していることを前提とし、司法はこれを追認するしかない。司法の能力の限界を自認するからこそ最高裁は、東京高裁への差し戻しを命じる事由を、「裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し」たため、と明言しているのだ。
さらに、砂川判決は安全保障条約という国家間で締結された条約に基づく米軍の駐留が合憲か否かを判断した判決であって、国内法を対象としたものではない。したがって、ただいま参議院特別委員会で審議中の国内法である安保関連法案の合憲性の根拠として、砂川判決を持ち出すのははなはだ不適当だと言わざるを得ない。国内法となれば、当然ながら司法の判断能力の範疇にある。だからこそ大多数の憲法学者が司法の判断以前に同法案を違憲であると考えている事実は重い。
とどめを刺しておくなら、前段で述べた砂川判決における「国際情勢の実情」とは磯崎氏が念頭に置いておられるような具体的な国外の脅威を指したものではない。政治判断に対する司法の限界を明言する判決文の趣旨に即して読めば、これは安保条約を政治判断によって認めざるをえない当時の日米関係を指したものであることは明白だろう。したがって、砂川判決の「国際情勢の実情」を軍事的国際貢献や中国脅威論へと直結させるのはミスリードである。砂川判決を持ち出すのであれば、今回もアメリカに頼まれたので仕方なくやらざるを得ないということをはっきりと明言すべきだろう。ただし、今回の安保関連法案は国際条約ではなく、国内法であるという点は忘れてはならない。砂川判決よりも、同じく国内法のイラク特措法PKO協力法との比較が望ましいことは言うまでもない。「国際情勢の実情」の文言を抜き出して恣意的に転用するよりも、戦地の実情を議論したほうがきっとはるかに有意義だろう。それとも砂川判決の事案と同じように、この新法制も国内法を装った事実上の国際条約なのだろうか。だとしたら、これは司法の範疇を超えた政治的判断の領域に属する。そしてその政治的判断を最終的にゆだねられているのは政府でも国会でもない。国民である。
砂川判決は、日米安保条約を積極的に合憲と判断したのではない。この判決は、政治的判断を扱う能力に欠けるために、消極的にこれを合憲と判断せざるをえない司法の限界を詳らかにし、あらゆる政治判断における国民の能力を支持している。