広すぎたクローゼット

 早朝ランニング。まだ筋肉痛。カフェで軽い昼食をとって、『ブロークバック・マウンテン』、ラーメン食べて、結婚式の打ち合わせ、帰宅、夕食。
 『ブロークバック・マウンテン』、大傑作です。隣のおばさん大号泣。ぼくらも涙ぐみました。以下、確実にネタバレするので注意。
 

Close Range

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 原作はピューリツァー賞作家Annie Proulxの同名短編。ワイオミング州を舞台に、消え行くカウボーイ同士の語りえない愛を描いている(これから読んでみたいと思います)。ハリウッドではほとんど暗黙のタブーとなっていた同性愛に正面から取り組んだその内容もさることながら、アカデミー賞作品賞の受賞を逃したことでその評価の揺らぎにおいても注目を集めた。
 1963年にワイオミング州の農場で羊追いの短期労働者として働いていたEnnis Del MarとJack Twistは、周囲から隔絶された冬山ブロークバック・マウンテンという環境の中で、突如として愛を育むようになる。その短い共同生活は、ブロークバック・マウンテンの風土の記憶と共に2人の記憶として深く刻まれる。Ennisは殴り合った果てにJackと気まずくなったまま下山した後、婚約者Almaと結婚し、2人の娘を授かり、またJackもテキサス州に赴き、ロデオの賞金稼ぎ生活の中で富豪の娘Lureenと出会い、一人息子をもうける。ブロークバック・マウンテンとその厳しい冬山の中で互いに温めあった記憶は、こうしてそれぞれの日常の中に雲散霧消していくように見える。
 しかし、ある日Jackは再会を希望するブロークバックマウンテンの絵葉書をしたため、Ennisに送り、2人は再び断続的な交感を開始する。期せずして、2人の再会の見てはならない場面を目撃したAlmaの不信はEnnisが度々山へと逢引に出かけ、仕事を失うたびにつのり、その語りえぬ秘密をただ一人内に秘めたまま、EnnisとAlmaは離縁に至る。Ennisの離縁を知ったJackは、男2人で小さな牧場を経営する案を持ちかけるが、保守的な風土と時代を気にかけるEnnisによりあっけなく破談、Jackは再びテキサスで経営者と家父長としての道を邁進する。しかし、年に数度のブロークバック・マウンテンでの逢瀬は、とめどなく続き、二人に無時間的な秘密の共有を約束させる。
 Ennisはその後再び別の女性との関係を持つが、うまくいかない。次第に20年にも及ぶ逢瀬の果てに、テキサスから年に数度もワイオミングを訪ねるJackの苛立ちも極限に達し、2人はブロークバック・マウンテンでかつてのように殴り合い、涙をからした後別離を選ぶ。それからしばらくして、EnnisはJackが死んだことを知り、Lureenに電話する。Lureenによれば、JackはLureenと別れ、テキサスの牧場主と農場を持った後タイヤ交換の際にタイヤがパンクし、事故死したのだという。Ennisの脳裏に、子供の頃、同性愛の果てにリンチされ殺された隣人の姿がよぎる。Ennisは、Jackの実家を訪ね、Jackの両親とお互いの領域には深く立ち入らないが濃密な会話を交わし、かつて2人が殴りあったときに血痕がついたJackのシャツを忘れ形見に持ち帰る。ほどなくして、Ennisのもとに娘がやってきて、結婚することを告げる。Ennisはただ2人が愛し合っているのかだけを問い、娘を祝福する。そして、物語は、Jackのシャツとブロークバック・マウンテンの風景を凍結させた絵葉書とをクローゼットの中に大事に仕舞って、日常を送ろうとするEnnisの姿を留めたまま終わっていく。
 homosocial/ homosexualの限りなく透明に近い皮膜と秘密の共有をクローゼットの装置を用いて表現しているのは間違いない。ただ、この2人の場合、ブロークバック・マウンテンを「クローゼット」と呼ぶにはあまりに広大すぎた(2人の関係は、当初から牧場主によって目撃されていた)。同様に、「小さな牧場」という2人が脳裏に抱く理想郷もまた「クローゼット」としては広すぎることがEnnisの幼少の頃の経験から示唆されており、中西部と西部の境界に位置するワイオミング州において、2人の語りえぬ愛を育む理想的な空間は形成されえない。結局のところ、皮肉なことに2人の別離の後のJackの死によって、つまり2人の理想郷が永遠に実現しないことが明白になって初めて、彼の代理となる絵葉書とシャツを永遠の遺物としてEnnisの私的なクローゼットに安全に囲い込むことができる。「公然の秘密」という公と私のバランスを保つことによって、クイアの政治学は稼動する。その意味では、広大なウィルダネスが広がる中西部/西部において、同性愛は政治的なトポスを持ち得ない。結局のところ、Jackの死によって、決して表に出ることのない安全な形になって初めて、クィアなトポスは、クローゼットの中に収めることのできる風景(絵葉書)という形で、ただし政治的な機能を去勢された形で実現するのである。
 また2人の男の語りえぬ愛という秘密が、それぞれの妻の内面生活に大きな影を落としている点も看過できない。Ennisの前妻Almaは2人の見てはならない逢瀬を目撃することで人知れず苦悩に苛まれ、そしておそらくはJackの死について秘密を抱えているJackの前妻Lureenもまたこの秘密から無縁ではないだろう。広大なクローゼット=ブロークバック・マウンテンが何を隠蔽しているのかについて知っていようと関知しなかろうとも、そのクローゼットの存在自体が、異性愛の制度に安住するAlmaとLureenを、ひいては2人の内面生活を不可避的に結びつける。保守的なワイオミングに暮らすEnnisはいうに及ばず、増してやLureenはfundamentalismの震源地である南部とも風土的に変わらないテキサスに暮らしてため、語りえぬ秘密はEnnisとJackのみならず、両者の妻をも孤独にさせていく。二人の妻は、2人の夫とは異なり、秘密をクローゼット=ブロークバック・マウンテンなしで処理せねばならないがゆえに、一層悲劇的である、ともいえるかもしれない。
 クィアと並ぶ、というよりそれとほとんど判別不能の重要な基調として、「消え行くカウボーイ」というテーマも見逃すわけにはいかない。1963年以降のアメリカは、徐々に対抗文化の時代へと移行しつつあった。西部を開拓するカウボーイは、西部から出発するイージー・ライダーへとその文化的イコンの地位を奪われつつあったのである。Ennisのカウボーイへのこだわりは尋常ではない。Almaの再三の勧めも断り、牧場の仕事にこだわり続けるEnnisは、情夫Jackすらも「やつはRodeoだ」とカウボーイとしての自分の在り方と差異化する。地域の祭りを家族で楽しみにいったとき、Ennisはタトゥを施したヒッピー風の2人組を殴り倒す。彼は自分が一般的なカウボーイであり、異端を許さない秩序を作り上げ、それを保持する伝統の担い手であることを自覚しているのである。その点で、彼は忠実にカウボーイ的なジェンダーロールを保守する人間でもある。妻に対しては常に自分が一家の先導者であることを誇示し、子供に対してもよき父親であろうとする。何よりも、冬山ブロークバック・マウンテンのテントの外で寝ようとしていたEnnisを招きいれ、彼を誘惑しようとするJackを、Ennisは力ずくでねじ伏せ、自らが情事の主導権を握る。Ennisは、クィアな場にも、カウボーイ的なジェンダーロールを密かに持ち込んでいるのである。
 だが、Ennisに異端視されるロデオ乗りJackもまた家族生活の場においてはカウボーイである。当初、彼は玉の輿に乗る形で結婚していったせいで、家庭における父の座を舅によって剥奪されている。しかし、Ennisはターキーを切り分ける役を舅から力ずくで奪い取ることで、独力で家長の座を獲得する。彼もまた、クローゼットの外の世界においては、カウボーイとして生きることを宿命付けられている人物である、といえる。ただ、より状況が複雑なのは、Ennisとの性的関係において、彼が常に女性的な立場、つまりフェムの役割を担う点である。Jackは、社会生活におけるジェンダーとクローゼット内部におけるセクシュアリティとの間に捩れを抱えている。もしかしたら、描かれてはいないが、JackがLureenとの別離を選択してまでEnnisとの失われた同性愛的関係を補完すべく、別の男性のもとに走ったのも、その捩れが何らかの形で関わっているのかもしれない。そして、Ennisもまた新たな男性を求めはしないものの、離婚後、新しい恋人との関係もうまくいかず、結局カウボーイ的なジェンダーロールを取り戻すことはない。『ブロークバック・マウンテン』のクィアネスは、異性愛と同性愛の安定的な関係を揺るがすことに関しては限界を抱えているが、少なくともセクシュアリティの観点からジェンダー関係にトラブルを持ち込んでいるようには見える。
 クィア批評・映画批評に関しては全くの素人ですが、とりあえずの雑感を羅列してみました。理論に対する無理解もさることながら、映画を一回見ただけですので、誤読や誤解は当然あると思います。ご容赦ください。また、台詞を抑え目に、沈黙を強調し、その構造自体がクローゼットを構造化しているようにもみえるこの映画、1963年という公民権にとっては記念碑的な年を出発点にしているあたり、同性愛者の観点から見た静かな抗議となっているようにも見受けられます。white statesを舞台としているので、白人以外の登場人物は気付いた限り、食料を運んでくるインド系(?)の男性一人。Ennis役とAlma役の2人が実生活において夫婦になったというのは、こちらから得た豆知識。http://www.wisepolicy.com/brokebackmountain/top.html