骨は拾ってあげるぞ

 朝方からもの凄い豪雨。最近の晴天続きはこの溜め撃ちのためだったのか。明日飛行機ちゃんと飛ぶかな? 読書、その他。晩メシは上記の理由から、残り物と冷蔵庫を引っ掻き回して作ったパスタ。
 
 丸井乙生の最新エッセー。今回はまだ記憶に新しい秘伝書事件の逸話をフィーチャー。→
http://number.goo.ne.jp/kakutogi/column/20060605.html

 アルゼンチンvsオランダ。0−0。大雨洪水警報のため、たまに映像が途切れる。ヌルイ試合。終始アルゼンチンがゲームをコントロール。オランダはごっそりメンバーを入れ替えてきていたし、この差は選手層の差なのだろう。メッシはスタミナ面に問題あり。アイマールが残り10分ぐらいプレーしたが、もうボールを回して時間を使い切る時間帯だったので、なんとも。オランダはこのゲームを見る限りどうなんでしょう。
 
 現日本代表の最後となる試合がもうすぐ行われる。私の感覚からいうと、「日本代表」というのは「浦和レッズ」とか「鹿島アントラーズ」とかと同列で語ることのできる、「日本で一番有名なサッカーチーム」のことを指す。チームのひとりひとりが、またサポーターのひとりひとりが、このチームに対してどんな思いを抱いているか知らないが、私はこのチームが「日本国を代表している」とは思わない。「ニッポン!」コールも、「ウィー・アー・レッズ!」コールとなんら変わらないし、「君が代」だってサポーターズソングの一種に過ぎない。という冷めた目で見てしまうのも、「日本代表」に対してさしたる愛着を感じたことがないからかもしれない。反対に「日本代表」にあらん限りの応援を送り、一緒に泣き、一緒に笑える人は、「日本代表」に「日本国」を重ねているのだろうか。んー、よくわかりませんが。
 ナショナリズムの問題は抜きにしても、私には、日本国において最もニュースの素材に選ばれ、最も賞賛され、最も批判される「日本代表」が、実は「日本国」のみならず「日本サッカー」とも結びつかないところに日本サッカーの影があるような気がしてならない。形影相伴わず。戦術無き絶対的自由の空間で、サッカー文化の空虚さを露わにしたジーコジャパンは、そうしたズレを白日の下に曝した。戦術や規律を取り払った後に、何がしかのサッカー文化が残余として残らなかった今の日本代表は、日本サッカーがJリーグ発足から培ってきたはずのヴィジョンの希薄さを体現している。この国にはまだサッカーはあっても、サッカー文化はない。トルシエからジーコへという転換、すなわち欧州/南米、組織/個人というサッカー界の二項対立の転覆は、日本サッカーが目指すべきモデルの不在を端的に物語っている。何を目指すのか。ナショナリズムがリアルな像を結ばないこの国において、統一的なヴィジョンを持つことはとてつもなく難しいことなのかもしれない。ジーコの戦術無き自由なサッカーに何らかの遺産を見出すなら、それは日本サッカーの柔軟さゆえの脆弱さを、彼ら自身がチーム内において、そしてゲームの上において演じてきた取り返しのつかない4年の歳月そのものにあるのかもしれない。
 とか言いながら、意外とできない子もかわいいもので、熱烈なサポーターとは違う愛し方かもしれないけど、日本代表のこと好きだったりするのかもしれないかもしれないかもしれないのがまあ難しいところです。これって告白でしょうか? 何の話だ。「さあ、フリーキック。蹴るのはサントス、ではなくやっぱり中村だあ…っと中村スルーっ、え! 茂庭あ!」というようなサプライズはいらないから、みんなに分かるサプライズをどうかひとつ。

 [追記]チェコvsイタリア。0−2。イタリアの術中に嵌ったチェコチェコがペースを握ったのは最初のほうだけ。セットプレーで点を失ってからは、いいようにカウンターで揺さぶられる。かと思ったら、一人退場。後半はチェコの運動量も落ちて、ネドヴェドのミドル以外は見せ場なし。全員攻撃の賭けに出たところをカウンターでインザーギに一発喰らう。チェコ敗退決定。ネドヴェドは孤軍奮闘、大車輪の活躍だったけど、この結果はやむなしか。バロンドールまで獲った名選手だが、いつもどこか哀愁漂う。所属チームが一大事なだけに、代表を去った後、活躍の場をちゃんと得られればいいが。お疲れさんでした。