愛国心と解釈

 論文3分の2終了。発表の場合、同じ議論を言葉を変えながら何回か説明したり、キータームを連発して聴衆の記憶に残るよう努力するが、論文だとそういう部分を軒並みカットできる。爽快。そして、たまに将棋。マイワシの刺身と炒め物。
 昨日今日と数人の方から出席の快諾を得る。ありがたいことです。電話するたび、なんだか長電話になってしまうのは、普段連絡をとっていないせいか。当方、根は薄情なのに、みなさんが情に厚いおかげでいい式になりそうです。感謝しております。当日、雪が降らなければいいのだけど。
 今年の5月に New York Timesが過去25年のベスト小説を選定した。→http://www.nytimes.com/2006/05/21/books/fiction-25-years.html?ei=5070&en=2df7fa2842213445&ex=1163826000&adxnnl=1&adxnnlx=1163740042-8TV1jkaV68Fm/WKaRDaqhQ
 それに対抗してか今度はGurdianが過去25年のベスト小説を選出。→http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,,1890228,00.html。ベストは、J.M.CoetzeeのDisgrace (1999)。


 教育基本法改正法案→http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/houan.htm
 概ね分かりやすく書かれており、広く教育の理念を国民に伝えるという意味ではうまくいっているのではないだろうか。ただ、「2.教育の目的と理念」の第5項に加えられた「我が国と郷土を愛する」という箇所が問題含み。朝の「とくだね」でも、心の問題をどう評価するのか、あるいはしないのか、という点が集中的に取り上げられていた。番組に出演していた政府関係者によれば、安倍総理は、日本国に関心を持ち、深く自国について知るモチベーションを維持することが肝要なのであって、それを評価するとかうんぬんかんぬんの問題ではない、と考えているようだ。それを真に受けてよいのであれば(本音は別のところにあるだろうが)、日本について関心を持つならどんな関心の持ち方でも許されるということでよいのであろう。法律が常に解釈の不安に曝されているように、日本についての関心の持ち方、つまり愛国心の解釈もまた多義的であってよいのであろう。それならばよいが、しかしこの文言のままであれば、近い将来、誰かが「ここの学校は愛国的な教育をしていない」と裁判に打って出るときが来る(ような気がする)。歴代天皇の名前を暗記させていないという右派のうめきか、中国や韓国に謝罪する精神を教えていないという左派の嘆きか。そのとき、愛国心の定義が司直の手に委ねられ、解釈の限定の問題は再燃するだろう。結局、解釈なくして法の適用はおろか、それに違反しているかどうかすら確かめようがないからである。法案自体に解釈の自由が認められていたとしても、「愛国心」はいずれ何らかの形で定義されてしまう運命にある。
 だからこそ、心に留めておかなければならないのは、解釈はコンテクストなしでは成立しないという歴史の法則である。今がかつての天皇崇拝のように解釈をひとつに限定する時代なのかどうか、もう一度「愛国心」のコンテクストを問う必要がある。どうか「我が国と郷土を愛する」の前に「個々人の心のままに」、あるいは「各々が信じる愛しかたで」といった文言を加える余裕のある、解釈の幅を許容する国であって欲しい。そうなれば、ささやかながら私もこの「美しい国」を心から、ただし自分なりのやり方で愛するつもりである。