豊かさと環境

 もろもろ。豚トロを食べながら「ちびまる子」。自らの家系を容赦なく貫く呪われた螺旋構造のことなどすっかり忘れ、「あんな子が欲しい」、と子作りに励む夫婦が増えるかも。案外、厚生労働省の差し金だったりして。うちらはだまされんぞ、とかいいながら、しっかり見てるけども。しかし、「お母さん」=ノリピーはしっくりこない。やっぱ清水ミチコ姐さんでしょ。


豊かさと環境 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

豊かさと環境 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

 ご恵投頂いた本。なかなか開く機会がなく、延ばし延ばしになってしまった。ご存じないでしょうが、この場を借りて陳謝。
 アメリカ学会40周年記念シリーズ。時間の都合上、1章と2章だけつまみ読み。1章は、Gary Crossの An All-Consuming Century に依拠しながら、アメリカにおける消費文化の流れを概観したもの。消費文化というと都市が分析の対象になることが多いが、この章の面白いところは田舎での通販の流行に焦点を当てているところか。アマゾンのはしりみたいな。消費主義に対する教養主義の抵抗も面白い。Book of the Month Clubなんかもこの流れの中に位置づけられている。が、結局は文化資本で経済資本の汚毒を中和する試みも頓挫し、消費主義の中に教養主義も組み込まれていく。教養もいまや商品である。
 2章は、ウォールデン地史を起点とした抵抗と包摂の関係を概観し、そのローカルな地史が文学史的な場へと開かれることで新たな抵抗の力を得ていく様子をダイナミックに詳述したもの。かつては抵抗のイコンであったウォールデンも、公民権運動を経て抵抗の色を失い、いまや国家的なプロジェクトによって再生され、権力に諾う観光地と化している。そこに主流に取り込まれた反主流の末路を見て取るのは容易い。しかしウォールデンは、ひとつのテクストとして、すなわち『ウォールデン』となって抵抗の活力を随時備給し続けている。つまり、ウォールデンの地史/地誌『ウォールデン』におけるエッジの哲学(対立を調停させるエッジの場)は、『沈黙の春』や『砂土地方の暦』、『オオカミと人間』、『砂と砂漠と湖と』といったそれぞれの時代に特有の問題に鋭く切り込んだ後継作によって批判的に継承されているのである。9・11以降の過剰なまでのイデオロギッシュな状況にあって、『ウォールデン』の抵抗拠点としての重要性はいっそう高まりつつある、と著者は締める。私個人は、主流と反主流との関係を複雑な「地誌」としても提起した『ウォールデン』は、それ自体が抵抗と包摂の関係を自演しているがゆえに、なんでも綺麗に分割されるような分かりやすい世の中のあり方(例えば愛国者/非国民)に対する抵抗となる、と解した。言い換えるなら、『ウォールデン』は、主流でも反主流でもなく、その二項対立的な状況そのものに対する抵抗として機能してきたのではないか。葛藤する物語であるがゆえに『ウォールデン』は、葛藤しない状況に対して介入する動機をもたらすのではないか。「文学の危機」の時代に『ウォールデン』を「危機の文学」として再定義するLeo Marxの宣言も含めて、(文学)批評の可能性を環境の視点から問い直す必要性はますます高まっていくことだろう。類書の中でも一頭地を抜く濃密さであった。
 そもそも、今や地球環境は危機的状況にあるから豊かに生きるのは間違っている、とか、それに反して、いやいや地球はまだまだ大丈夫だよ、消費文化万歳、と対抗することにあまり意味はない。「豊かさ」と「環境」を並置することの意義とは、そもそも両者の対立が擬似対立であることを暗示することにあるのではないか。「豊かさ」だけであるなら、それは消費文化でも資本主義万歳でもいい。「環境」だけなら、インディアンを守れでも、自然と共に生きようでもいいかもしれない。けれど、「豊かさ」と「環境」が並置されるとき、そのようなイデオロギッシュな主張は変更を迫られる。「豊かさ」は「環境」の状況を加味したものへと変わるだろうし、「環境」は「豊かさ」から無縁の天衣無縫なものではありえない。いまや「豊かさ」と「環境」は並置されるべきものであり、両者はほとんど互換可能な用語になるべきだと思うし、実際、日常において両者は密接に絡み合っている。互いの互いに対する稚拙で不毛なバッシングを目にするたびに、無意味だなあ、と思う次第。