学者のウソ

 もろもろ。煮込みハンバーグのあまりをそのままハヤシライス風にして食べる。


学者のウソ

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書評/社会・政治

 パブリックな場で発言し、時には国を誤った方向へ導く学者の発言内容を精査した上で、そうした学者を再生産する温床である学歴エリート社会の悪循環構造を指弾し、最終的に社会的影響力の大きいメディア御用達の学者のみならず、国税の恩恵を受けて研究している学者全ての発言に責任を取らせる「言論責任保証制度」の確立を提案する。メディアを跋扈する学者の無責任な発言や無意味な諮問機関で無意味な発言を連発している御用学者の現状に鑑みて、本書の主張の意義は誰にも理解できるだろう。序文で懐疑主義が猛威を振るう現状に警鐘を鳴らし、何かを信じなければ人は生きていけない、と訴える辺りなど、著者が市井の立場で発言し、既得権益に拘泥する公共性を欠いた学問に対する叱責を意図しているのが伺えて、好感が持てる。なるほど、言論の自由を盾にして、なんでもありの五月雨の矛を正誤構わず突きまくる御用学者の現状を故事に倣って「矛盾」と見たうえで、その矛盾を解消する倫理観をどうにか担保しようとする著者の試みは確かに画期的なものなのかもしれない。
 著者は科学的方法論を「信じる」ことで、信じるに足りない疑似科学的な言論を喝破し、不適切な言辞を発する学者に責任を持たせるシステムを構築しようとしているようである。その方法論とは、

ある現象を論じるとき、関係のありそうな要素群だけを抜き出してきて、その要素群が固定されていれば、「同一条件」と判定する。そして、個々の要素の影響を切り出して分析し、その足し合わせとして組み合わされた条件下での現象を予測する。[中略] よって、何が関係のありそうな要素で、何が切り捨ててよい要素であるかを嗅ぎ分ける能力を持つことが、科学者としてよい仕事をするために必要になる (88)

というものらしい。かいつまんでいうなら、その方法論は何かの事象を再現可能なようにするために、再現性を損なうような要素を切り捨て、再現に必要な要素を残す、というものだ。著しく再現性を欠いた「非線形」の事象(下敷きを立てて上から押した場合、左に曲がるか右に曲がるか、といった予測し難い事象)に対しても、この基本的スタンスは変わらない。事象を予測できないものとしている要素を排し、より再現性の高いモデルを作り上げていくというわけだ。どちらにしても、著者は予測できるもの、再現できるものを追求することを、自らの思考の基盤として「信じている」ようだ。
 例えば、データの開示/隠蔽を軸とした少子化論争に、この科学的方法論を適用すると効果はてきめん。著者は、男女共同参画を推進することで少子化は改善する、という学者たちの恣意的なデータ操作を批判する。男女共同参画が進めば少子化が進行するというデータすらあるのに、女性学者たちはそうした自説に不利なデータをこぞって無視し、自説に都合の良いデータばかりを採用する、というのが著者の主な主張である。結局、少子化はいまだ改善されず、10年間に渡って投資されてきたエンゼルプランの2兆5千億円以上の税金が無駄になった。女性学者よ、責任取れ、というわけである。少なくとも子育てのインフラは整備されたわけなので税金が無駄になったかどうかは異論のあるところだが、見当外れの男女共同参画にすがり、予測可能で持続可能な「産めよ増やせよ」モデルを科学的に設計できなかった学者たちの責任を問う意味では、この方法論は効力を十分に発揮していることになるだろう。
 著者が設計する言論責任保証制度も、著者が信じる科学的方法論の延長線上にある。学者が提出する言論を10年、20年という時間をかけて精査し、それに明確な過誤が認められる場合、学者は預託金を没収されるという形で自説に対するケジメをつける。当然ながらこのケジメは、予測が失敗したことに対して向けられている。つまり、この言論責任保証制度は著者も明言するとおり、学説を再現可能で予測可能な線形(ある法則に則っていると認められるもの)の事象であるかどうか判断するシステムだということになる。さらにいうなら、予測に関わらない学説はこの限りではない。あくまで、科学的方法論の常識にかかるか否かがこの制度にとって重要なのである。よって、ある時点において予測が正当かどうか判断が困難な事象を、長いスパンの予測のものさしで検定するのがこの言論保証制度の眼目となる。
 したがって、本書は、学者の無責任な発言を倫理的に処理する制度*1を提案する書であると同時に、線形・非線形問わず、再現可能性・予測性に関わる学説の信頼性を科学的方法論によって担保しようとする書であるといえる。ゆえに、本書の批判の対象として挙げられている様々な予測に関する学説に対しては、著者の採る科学的方法論による批判、並びに著者が設計する言論保証制度が、少なくとも理論的には一定の効力を発揮することは間違いない。
 ただし、第2章「本来の学問」と銘打った章において展開される議論のように、予測に関わる学問を半ば絶対化し、科学的方法論=予測を学問の必要条件とまで拡大解釈していくその無理な敷衍には一抹の不安を覚える。確かに科学的とはとてもいえない学説が予測に関する提言をしている場合、それは科学的方法論に照らして精査されるべきだし、「この学説は科学ではない」という抗弁は詭弁でしかない。しかし、学問=科学という公式は果たして成り立つのか。この章で、著者は「予測する力を持つ知識体系としての科学」(109)と学問を混同している。
  

 予測する力を持つものが学問であると定義した場合、学問としての正当性は、予測力の有無により客観的に評価することができる。しかし、予測力に欠落した学問の場合、その意義の客観的評価は難しくなる。(109)

 著者は、科学を定義する「予測力」を学問一般の判断基準として持ち出す。予め再度断っておくなら、科学以外の「予測力に欠落した学問」が予測に関わる提言する場合、当然ながらその提言は「予測力」を軸に批判されてしかるべきだろう。しかし、一般的学問を予測力のある科学を基準に品定めするのはいかがなものか。もちろん、著者が科学こそが学問の最上位に位置し、その他の学問が擬似学問であるというような偏見を抱いている、とまでは思わない。しかし、こうした科学的な視点の偏りは、以降のポストモダン批判、構築主義批判へと進むにつれ目立つようになり、理路の通った議論に妙な違和が生まれることになる。
 著者によれば、ポストモダンは著者の信じる予測力の源泉たる近代合理主義を批判する思想であるらしい。ポストモダンは主に現象面では物質文明、大量消費社会、資本主義を批判し、思想面では科学的方法論を弾劾したようだ。そして、そのポストモダンが近代合理主義を批判する際に持ち出した方法論こそ「構築主義」であるという。「絶対的な真実や価値はないとする価値相対主義」につながる構築主義は、「自然科学のように一般性を持つ法則の存在を仮定する考え方」である本質主義と対立する(116)。序文に見られた懐疑主義に対する嫌悪感と何かを信じることの重要性の表明は、こうして著者いうところの構築主義vs本質主義という図式に集約される。そして著者いうところの本質主義者である著者は、自分に都合の良いところだけ疑い、都合の悪いものは無視する構築主義者のご都合主義を批判するのである。
 しかし、自らを本質主義の場に位置づけ、それと対立するポストモダン構築主義を批判するこうした主張も、あまり成功しているとはいえない。自分の信じる科学的方法論を擁護する意図を差し引いてたとしても、上述のような分類はあまりにも著者自身の関心に引き付けすぎたものであるし、安直な非難へと堕しているきらいすらある。そもそも科学的方法論=本質主義という安直な同一化、そして共に普遍的法則を探求するという共通目標を有しているという前提は多分に疑わしい。
 進化論を例にとろう。進化論以前、人々は神の被造物である生物がいつの時代も変わらず犬らしさ、猫らしさを保っていると考えていた。しかし、進化論は、その犬らしさや猫らしさが長い年月をかけて変遷してきたことを明らかにした。進化論以前も進化論以後も、生物に何らかの共通項・法則を見出そうとしてきたことに変わりはない。ただ、前者と後者とでは、それぞれの生物に見られる共通項が変化するか否かに関して決定的に意見を異にする。本質主義は、何かの法則の存在を前提とするような現在における科学的思考法と似通っている部分もあるかもしれないが、決定的に違うのは、進化論以前の思考のように本質の不変性を信じるところにある。その本質は、どんな状況下においても決して変容しないのである。本質の不変性を守り抜くためには、本質を共有しないものを、排除するのみである。
 もうひとつ、本質主義は、科学とは全く相容れない形而上学的な思考である、という点も付け加えなければならない。例えば、女性は生まれつき母性本能を持っている、黒人はIQが低い、日本人は勤勉な国民である、といった本質主義的主張がこれまでなされてきた。これらは、本書が批判の対象とするデータの捏造や改ざんといった手練手管を用いる疑似科学によって広められてきた風説に過ぎない。科学的手法を用いて、これらの統計的妥当性が仮に導けたとしても、全ての女性・黒人・日本人が永遠にそうである、というような結論は決して導けない。そもそも、科学と本質主義は、同一視してはならないのである。
 著者が目の敵にする構築主義は、このような本質主義の弱点を批判するために登場したのであって、決して科学的方法論を突き崩すためではない。だが、著者はこの決定的なずれに気付かない。ついには、本質主義の有用性を認めたうえで、「確率的な予測しか与えない法則を根拠に、社会の構成員に過剰な規制を加えようとする」本質主義、そして法則を捏造する本質主義の2つを悪い本質主義の見本として提示するに至る。もはや、科学的方法論を本質主義的に信じるがあまり、科学ではなく、本質主義の熱狂的擁護者になってしまったかのようだ。どうしてこんなことになるのか。
 これは著者があまりにも科学的方法論を徹底し、敷衍するがゆえの弊害に他ならない。確かに構築主義は、科学者の神経を逆なでする部分があるかもしれない。全ての現実は社会的に構築されており、どんなに不変の法則として見えるものでも不確かな構築物に過ぎない、と主張するのだから。しかし、それはひとつの見方に過ぎない。人間生活のあらゆる局面で有効な方法というわけではない。人間も本質主義的な思考をしなければ生きていけない。隣人や友人に対する信頼、世間に流通する貨幣、母親が子供に向ける眼差し。これらは全て永久不変で皆が共有しているという本質主義的な信仰を持たなければ、とても生きてはいけない。しかし、その一方で、その信仰そのものを見つめ直す視点も時には必要になる。構築主義は、信仰が揺らぐとき、信仰が立ち行かなくなったとき、信仰が時代に合わなくなったとき、新たな信仰を紡ぐために必要となる。信仰の条件そのものを問う構築主義は、必ずしもただの懐疑主義ではない。それは正しく信じるために必要な思考なのである。
 私個人としては、科学的方法論を本質主義的に信じている著者にこそ構築主義は必要なのではないかと思う。例えば、奥田日本経団連前会長の外国人労働者をもっと受け入れるべきだ、という提言を受けて、著者は、高給の仕事は外国人にも門戸が開かれている現状からいって、奥田氏の意図は薄給の仕事にも外国人をもっと雇うべきだというところにある、としたうえで以下のように述べる。

しかし、2005年のフランスにおける暴動に象徴されるように、ヨーロッパにおいてその種の外国人労働者を大量に受け入れた結果、多くの社会問題が起きていることは周知の通りである。たしかに、安い労働力を利用できる自動車メーカーにとっては、外国人労働者の受け入れは、それこそ近視眼的には儲かる話である。しかし、ヨーロッパの現状を見る限り、そういう儲け話と縁のない人から見れば、外国人労働者受け入れに慎重な日本政府の姿勢は、それなりに評価できるものであろう。(171-72)

フォローしておくなら、著者個人の意見は「外国人労働者の受け入れについて無条件反対ではない」ようだし、なによりここでの批判対象は、奥田氏のソロバンばかりを気にした安直な発言であり、その背後にあるエリート中心主義である。しかし、安直に利益誘導しようとするエリート中心主義を批判する目的の為に、こうも安直に排他的外国人労働者差別を口にされるとしばし固まってしまう。そもそも各国で移民の問題が起こっているのは、移民を受け入れたからではなく、対移民政策に不備があるからではないのか。まるで、イラン人一家を短大に進学する長女を除いて家族まるごと強制送還した日本政府の冷徹さをなぞるかのような冷徹さである。本当に思っていなければ書かなければいい。科学的方法論の御旗のもとに科学的根拠のない発言を斬る著者であるが、しばしばこうした根拠のない独善的な発言をする。特にフェミニズムに対する再三再四に渡る執拗な攻撃にはほとんど論理を超えたものを感じるが、さすがにもう割愛する*2
 当然ながら、こうした論難は著者の提唱する言論責任保証制度をなんら貶めるものではない。ただ、一部の御用文系学者の軽率な発言を、安易な科学称揚、安易な文系批判に安易に流用する傾向だけは避けていただきたい。それこそ、著者が最も嫌う手段と目的を混同した「専門バカ」のはずだから。長くてスンマセン。

 

 

*1:著者は、学説を様々な人々が判断する段階においては例えば可逆性テストなどの倫理学的な方法を挙げている。言論保証制度という科学的方法論を具現化した制度の中に、倫理的な方法論も取り入れられている点は特筆に値する

*2:本書における構築主義vs本質主義の議論に加えて、フェミニズム非難についてここで言及されている→http://d.hatena.ne.jp/K416/20070324/1174725736