大日本人とテレビ/映画

 ゴーヤチャンポー。
 嫁が代休。例によって映画でも観に行くか、という安直な決定。ホラー系が苦手な嫁は『ゾディアック』を却下。『300』も候補だったが、たまには邦画でもいいか、ということで、『大日本人』を見に行くことに。正直、あまり期待はしていなかったものの、観ようによってはそこまで悪くもないのではないかと。とはいえ、ストーリーの確信犯的破綻ぶりとなんとも微妙なドキュメンタリータッチの手法は、伝説の『バリゾーゴン』『ザザンボ』を思い起こさせるものがあり、映画というメディアにノルのはかなりぎりぎりな感じ。いや、むしろこれはアンチ映画というべきか(と言い切れるほど映画を観てきていないのですが)。ネタバレを極力避けた素人の雑感。
 テレビの世界を相対化する意図があったのか、なかったのか。ドキュメンタリーのカメラを相手にひたすらしゃべる形式でひたすらひっぱり、映画の観客をドキュメンタリー番組の視聴者として位置づける。テレビという雛形を入れ子式に包み込む映画という形式。主人公の男は、かつてはテレビのゴールデン枠にいたものの、今や深夜の15分ほどの枠で細々とヒーローとして登場し続けるテレビ内有名人。ドキュメンタリー番組は、そうしたヒーローの凡庸すぎる日常を追う。この男は、スクリーンの中で、(アンチ)ヒーローと普通の人とのあわいに漂うことになる。最終的に、残り20分ほどで映画/テレビ、ヒーロー/普通のひとという構図は「関係ねえ」とばかりにぶっとび、松本が繰り返し演じてきたコント(映画的にはメイキング映像)に収斂していく。
 そういう基本的な流れの中で、形式としてのテレビは徹頭徹尾パロディー的批判に曝される。凡庸すぎる質問と受け答えを繰り返す三流ドキュメンタリー番組のインタヴュアー兼カメラマン。テレビ番組に登場するヒーローの身体に可視化されたCM。ヒーローを搾取するマネージャー。などなど。極めつけは、ヒーロー番組の中で男がやる「獣退治」のことごとくがテレビの放送コードに引っかかるものだということ。性的な表現、幼児虐待、老人虐待などなど。映画という別のメディアを通じてテレビ自体を表象し、パロディにしている、ということか。最後の映画的メイキング映像がテレビのコントとほとんどダブって見えるのも、そういうわけか。反対に、映画という枠組みをその中に表象されたテレビという内容が裏切っていく、ともいえる。だから、この作品は、テレビにしては長すぎるコントとして批判され、また映画の体裁を整えていない、ということで批判される。テレビでも映画でもない、その半端さが人々を苛立たせるのではないでしょうかねえ。結局のところ、テレビの視聴者/映画の観客として位置づけられる私たちの方が、いかにテレビの文法、映画の文法にどっぷり浸かっているのか、ということをこの作品は詳らかにしようとしているのではないでしょうか。成功しているかどうかは別として。
 枠組み自体に対する批評性の観点から言えば、映画のコメディというジャンルとテレビのコントというジャンル自体に対する言及があまりになさ過ぎるためかもしれないが、この作品は両者のあわいにいるということが(なんとなく個人的に)わかるだけで、作中のヒーローと同じく、何と戦っているのかが全く理解されないし、不明のまま。そこらへんが、この作品に対する微妙な評価を生んでいるような気がする。どっかの誰かさんみたいに「無」だとは思わないけど(「無」っていいきってしまうっていうことは、映画評論家さんの批評力とか思考力の「無(さ)」が作品に投影されてしまった、ということと同義だと思う)。
 部分的には笑えるところもあったけど、やっぱりお笑いのカリスマっていうハードルが高すぎるのかなあ。ま、どこで笑うか(笑わないのかも含めて)というのは個人の感性次第だと思うし、(最近の日本の)笑いってそもそもが内に閉じる性質があるので、受容にばらつきがあるのは当然だと思う。志村けんの「変なおじさん」コントのように、前フリを長くして、終盤一気に不条理でひっくり返すという荒業は、ウケル人にはウケルのだろうし、ウケナイ人には全くウケナイのだろう。「ゼア」/「ゼヒ」は結構普遍的だと思うが、これも斜に構えている知的な人には届かないに違いない。ハリウッドのようなシンプルなコメディではなく、コメディという形式そのものを笑う、というか、メタ・コメディというか、ますますそんな傾向を強めつつある松本の笑い(特にこの作品)は、結構難しいのかもしれないなあ。しかし、テレ東系の番組で「賛否両論あるものが残る」といっておられたので、その意味では成功かと。でも、前フリ長いよなあ。