Delicato California 2005 (Shiraz)

 フルーティ。赤のわりには軽く、ベリーの香りが強い。鼻から抜ける感じがなかなかよい。ダイエーなのだが、なかなか旨い。

 

古本暮らし

古本暮らし

 長年古本の山に身も心も沁み込ませて、傍目にはじくじく生きてきたように映るひとりのフリーライター。男は昼過ぎに床を立ち、古本屋を巡っては「また今日も無為に過ごしてしまった」と反省しながら日々の主夫業をまめにこなし、またあるときには出版社でバイトを片付け、丑三つ時にひとりカリカリ仕事をこなす。家には夫婦ふたりの蔵書がてんこ盛り。どれを捨てるか悩んでいるうちに今日も日が暮れる。あるいはどれを捨てないかで悩んで日が暮れる。いずれにしても日は暮れる。
 「ここで一旗」といった血潮漲る力こぶや前のめり気味の気負いとは一切無縁。「脱力系」とか「スローライフ」とか陳腐なラベル張りで片付けるにはもったいない、無理のない自然な力の抜け具合に、文字を追うこちらの目尻も自然と下がって、ソファに体がずぶずぶ沈む。
 古本収集のベテランだからといって、古本の知識をひけらかすつもりなんて毛頭ない。ここに登場する古本のタイトルはおろか著者の名前すら知らなくても、荻原魚雷は、先人から学んだこと、ちょっといい話、心の琴線にふれるエピソードを、人情の機微に触れた感触そのままに、擂り粉木でちょっとだけすりつぶして読者の眼前に運んできてくれる。轟轟と勢いよく燃えさかる「師訓」は一度灰燼に帰して著者の「私訓」となり、その灰が今度は読者の前で美しく枯れた花を咲かせる。
 古本と日常の近さがあり、その近さが読者の近傍に寝そべる。荻原にとって読書は生活から抜け出す手段ではなく、生活そのもの。軽妙でいてどこか重厚さを帯び、楽しげでいてどこか悲しげで、楽観的なようでいてどこか閉塞感を漂わせる文体なのは、きっとそれが古本によってぐるり囲繞された生活そのもの、荻原の古本暮らしそのものだからだろう。生活感に溢れた文体が、するりするりと人生の襞に分け入る。

 

 ある作家のエッセイを読んでいたら、「自分は人生という言葉が嫌いだ」というようなことが書いてあった。いわれてみれば、人生という言葉には重々しいひびきがある。でもわたしは人生という言葉は嫌いではない。たぶんそれは人生を軽々しくかんがえているからだろう。(「思うとおもう」)


 そんな軽々しい暮らしであっても、それなりに重くもある。

 

 三十歳をすぎて、自分の限界みたいなものが見えてきて、自分は自分にできることをやるしかないとおもえるようになった。もちろんその決意はしょっちゅうゆらぎ、いまだにぐらぐらだ。二十代に仕事を転々として、生き方が定まらなくて、世の中に出遅れてしまって、不本意な生活が続いた。それでもどうにかこうにか自分の場所のようなものがすこしずつだけど、できてきた。自分の場所のようなものができると、こんどはその場所を守ることばかり考えるようになって、だんだん身動きがとれなくなる。(「成長するってこと」)

 「旅慣れている人」はどんどん先にいく。荻原の目に、旅人の姿は輝いて映る。でもおそらく荻原のような佇みだけが、旅人の速さを自分の遅さと比べることで深く重く受け止める。速さに憧れる人だけが、速さをよりよく知ることができる。みんなが佇んでいたのでは世の中回らない。けれど世の中回りすぎると、きっとみんな目を回す。佇むのもそんなに悪いことではない。
 もちろん、佇むばかりでは能がない。

 

 わたしも初校をみると、直したくなる。書いているときには気づかなかった傷を見つけてしまう。またさらに書きたいことが出てくる。
でもそれは次の機会だ。
 「ええい、ままよ」とふだんの日常会話ではめったにつかわない言葉を自分の原稿を返却するとき、心の中でつぶやいている。[中略]
  
 つぎの機会にどこかで別のものを書くときに、その恨みをはらせばよい。

 たぶん「書き捨て」もこれと同じことだ。
 今回書き切れなかったことは、またの機会に書こうと思う。(「ええい、ままよ」)


旅の恥は「書き捨て」。「書いて」もよい恥は書くに限る。