メロドラマ

 もろもろ。弁当。
 9・11だということを忘れていた。どんなに衝撃の大きい出来事も、どんなにトラウマ的な出来事も、時間の経過はあっさり乗り越えてしまう。記憶と忘却の狭間で置いてきぼりになるのは、事件の被害者だけ。健忘症というのは生きやすくするための便利な機能だとは思うけど、忘れたくても忘れられない人との溝は年々深くなるばかりだよなあ、とか思ってみたり。ま、9月11日が来るたびに思い出すだけでも、意味はあるのでは、と忘れていたことを忘れたふりして自分を擁護。

 

ビラヴィド (シリーズもっと知りたい名作の世界 (8))

ビラヴィド (シリーズもっと知りたい名作の世界 (8))

 このシリーズの本を初めて読んだ。届いたら、思っていたよりも随分サイズが大きくてびっくりした。値段設定は欲を言えば若干高いと思う。望みはイチキュッパあたりか。

 さて、私はこのお話は端的にいえば、ソープオペラ、昼ドラだと思っている。

 旦那と生き別れた奥さんが、姑さんを亡くし、男の子ふたりには逃げられて、娘と寂しく暮らしている。そこへ、昔奥さんに恋焦がれていたある男が、流浪の旅の果てにふらりとやってくる。寂しさを全部男に投げ出す女。抱き合う二人。そして二人は愛し合う。お母さんをとられたと感じる娘は嫉妬に燃える。
 そこへある日、死んだと思われていたもう一人の娘がふらりと戻ってくる。再会する姉妹。親子の絆は深まっていく。ところがある日、男はこの戻ってきた娘に誘惑されたように感じ、思わず同衾してしまう。罪悪感を感じる男。男は家を出て行く。つづく。


みたいな感じだろうか。このお話が出版されたとき、ある書評家がそのものずばり「ソープオペラ」と断言しちゃって、今でもモリスン批評家はその書評を「こんなイタイ人がいたんですよ」みたいなニュアンスで引用している。けれど、私はこのお話は全然高尚なお話でも何でもなくて本当に「ソープオペラ」だと思う。だけど、「ソープオペラ」といっちゃった件の書評家が残念なことになってしまったのは、その語り方に注目しなかったからだと思う。俗っぽい話を高尚に語るというか。本当に俗っぽい日常的なお話を非日常的に語るというか、その語り口が見事なのであって、話自体に探偵小説的な捻りとか意外性とかほとんどない。だから、ある意味、母子二人と同衾しちゃったおっさんに「奴隷制の呪い」とかそんなものを見る必要は全然なくて、あれは笑えばいいのだと思う。というと不謹慎ですよ、ということになるのだろうけど。奴隷制のお話でユーモアを論じるのは、もの凄く難しいことだとは思う。
 はてさて、本書の中身なのだけども、もの凄い充実振り。これを読めばほとんどこの物語のポイントは網羅できたといっていい。最初の方で編者がモリスンの来歴と物語のポイントを説明。それから、他の文学作品と比較しながら、大きなテーマから断片的なものまで洗いざらい総括していく。中でもインディアンの文学や歴史に照らして読み直す論考は出色。参りました。後ろの方には、インタヴューやエッセーの抄訳、それから年表までついて、参考文献も大きなところは全部載っている。ところどころに差し挟まれるコラムも副次的な情報を新旧惜しみなく提供していて秀逸(大学院生の手による)。シリーズの他の本もちょっと読んでみたくなった。