沈黙するフレームの中の雄弁

 殺人事件やそれに準ずる重大事件が起きたとき、真偽のほどはともかく、メディアは、誰がもっとも疑わしい人物なのかを暗黙のうちに語ってしまう。その人物は、しばしば被害者側にもっとも近い近親者だったりする。最初は同情されるべき被害者が、しかし次第に猜疑の目にさらされる容疑者として映るようになる。捜査の進捗状況を報告するリポートの合間に頻繁に差し挟まれる被害者側の証言は、少しずつ視聴者の受動的な皮膚感覚の中に能動的な疑いの視覚を滋養する。
 だが、テレビは手を下さない。疑わしい人物は、演出せずとも雄弁に自己演出を繰り返すのだから。取り繕わなくてよいものを取り繕ったりするせいで、意図しない箇所が視界の際でほどけていき、ついには解れた糸の先を自分を踏んづけて、前のめりに転んで、挙句の果てに解れた糸で後ろ手に縛り上げられることになる。テレビ側は、なんの批判的コメントも加えずとも、画面に映る被害者の雄弁すぎる語りがやがて自己弁護の色を帯び、信用を失していく過程を、ただひたすら傍観者の立場から流せばよい。沈黙するテレビとそこに映る雄弁な被害者。たとえそれが冤罪だったとしても、沈黙する側を誰も責めはしないのだから、沈黙は金、雄弁は銀(いや鉄くず以下・・・、いや最近流行りの鉄くずは高く売れるらしいのでここは木屑以下)、ということなのだろう。まさに金言なれど、弁舌を振るうのに夢中なものがそれを耳とどむとは思えない。

 
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