ベースボールの夢

 ずいぶん寒くなった。裸足だと室内でもちょっと冷える。少し前まで住んでいた彼の地は、こんなものではないだろうと想像する。ひょっとして、霜が降りていたりして。
 寒いので、ほぼ毎日鍋。ところが、酷使しすぎたか、土鍋が割れる。土鍋欲しい。

  "national pastime" の揺籃期に急成長するアメリカ資本主義社会の陰陽を、文化史的に解読する本。おもろい。
 まず、ベースボールの(神話的)起源をめぐるつばぜり合いが語られる。「殿堂」を構えるベースボールの聖地、クーパーズ・タウンか、はたまた凡庸にイギリス由来のクリケットか。ベースボールに理想的な男性像や国家意識を投影するアメリカ人の心性を覗いたり、また分断/統合の界面としての南北戦争がベースボールの起源と絡まりあっていたり、なかなか一筋縄ではいかない。*1
 混沌の世紀転換期に、さまざまな、時に相反する価値観をそのまま引き受けたからこそ、ベースボールは国民の娯楽となりえた。都市化の進行に相俟って幻想のスモールタウンを投影する場であると同時に、規律正しい近代人の都市倫理を象徴化した場でもあったベースボール。精神的な男性性(manhood)を超え、より肉体的な男性性(masculinity)を体現していくベースボール。*2人種隔離政策を早々に反映し、政治化されていく場でありながら、公民権法制定以前のアメリカで早々に人種統合を実現していくベースボール。さまざまな地域ルール間のせめぎあいがそのまま地域間の覇権争いとも結びついていくベースボール。 「ボール・ゲームに連れて行って」に顕著なように、女性に観客の役を割り当て、masculinityを支援するfemininityを醸成していくベースボール。*3
 発展していく産業が次々と雇用を創出し、ホワイトカラーの空間を拡大させていく中で、明確だったかつてのミドル・クラスを分かつ境界が次第に雲散霧消する。ひとつの集合体としての意識を共有できない新中間層の人々は、試行錯誤しながら新しいアメリカの意識を形成していった。資本主義の大波に乗って大成したベースボールは、まさに新中間層の期待と不安をまとめて飲み込む文化装置だったということか。群集のなかの一人として都会の匿名性を享受することと、ホームタウンに対する帰属意識に安らぐことは矛盾しない。両者は、メビウスの環を構成し、ベースボール=資本主義の夢を増幅させていく。
 近年、ベースボールの夢はしばしば幻滅に変わる。長引くスト、薬物の蔓延、天井知らずの年棒の高騰。メビウスの環を維持し、夢をつなぐのであれば、商業主義と競合し、そこに捻りを加える幻想が必要となる。捻りや捩れを失ったとき、ベースボールは衰退する。本書に、そうした訓示を深読みするのもそれほど的外れだとは思わない。
 末尾に文献一覧と年表までついているので、教養を求めて本書を手に取る人だけではなく、ベースボールで卒論を書こうという学生、またベースボールについて研究する手がかりを求めている研究者にとっても、うってつけの文献といえる。ベースボールが商業主義路線をまっしぐらに突き進むベーブ・ルース以後も読んでみたい。また、本書にはないが、ベースボールの道具の変遷についても、ちょっと読んでみたい。

*1:ベースボールの起源を調査すべく立ち上げられたミルズ委員会が1907年12月30日に下した結論は、南北戦争の戦端を切った象徴的人物、アブナー・ダブルデー創始者として認定する、というものだった。が、ダブルデークーパーズタウン説は真実味に欠け、現在では起源神話のひとつとして親しまれている。

*2:本書での分類に則ったが、manhoodとmasculinityは、このように分類できるのか。初耳。

*3:日常的な男女の役割(男は仕事で女は家を守る)だけではなく、祝祭的な空間においても、ジェンダーの布置連関は効力を発揮しているということか。ただし、男女混合で試合をしたり、女性のリーグが活況を呈したりした時期もあったので、ベースボールにおけるジェンダーの配置を本質的なものとして規定することはできない。