音楽をまとう若者

 沖縄旅行の計画を立てる。もしかしてもう泳げたりして。
 麻婆豆腐。クック○ゥのようなものを利用しないで作ってみたが、簡単。でも、ちょっと脂分が多いようなので、要対策。ひき肉を炒めたあと、脂を捨てるとか。


音楽をまとう若者

音楽をまとう若者

 日本の高校生がどのように音楽と関わっているか、あるいは音楽を利用することでどのように他者と関わっているかについて実地調査した上で、その結果をブルデュー文化資本理論やド・セルトーの戦略/戦術理論をベースにして斬っていく研究。従来の理論に振り回されることなく、実地調査の結果から帰納的に分析道具をアレンジしていく柔軟さが特徴。実地調査を文学研究におけるテクスト読解に当てはめて考えてみてもいいかもしれない。分析の中心となる道具は、フォーマルな空間(学校教育・正統的部活動)とインフォーマルな空間(学校外の聴取・演奏活動)、そしてその中間に位置するセミフォーマルな空間(学校内バンド活動)。これらを使うことで、それぞれの空間で、若者が工夫しながら他者との関係を動的に構築していく様子をうまく素描できている。また、先行研究が軽視してきたポピュラー音楽に対する女生徒の関わりを前景化するのも、本書の特徴であり、おもしろいところ。本論に入るまでの助走の段階で、音楽研究のみならずカルスタの歴史や問題点も含めたおさらいがされているので、その辺も勉強になった。音楽を自己の隠蔽と共に自己の開示としても利用するという意味において、表題の「まとう」は秀逸な表現だと思う。以下、だだだっと取り留めのないメモ&感想。
 男子生徒は、フォーマルな空間において、仲間うちで共有されたコモンミュージックを足がかりに、自らの嗜好を反映したパーソナルミュージックを開陳しながら、友人関係を積極的に構築する。対して、女生徒は、フォーマルな空間にあってはパーソナルミュージックを隠蔽することで、コモンミュージックを通じた調和を表現する(あるいは世代を超えた音楽、スタンダードを前面に押し出すことで先生との関係を良好に保つ)。全般的に若者は、コモンミュージックやスタンダードが対人関係を築く基盤となり、それらと自分の嗜好との距離を意識しながら、自分の立ち位置を確認する。
 ジェンダーの差異は、男女混合バンドが活躍するセミフォーマルな空間でも現われる。男子生徒は、自らのパーソナルミュージックを互いに戦わせながらも、バンドの演奏するコモンミュージックにおいて微妙に折り合う。ボーカルを務めることの多い女生徒に対して向けられる嗜好の期待値(あくまでも女生徒のパーソナルミュージックとは限らない)が、男子生徒の嗜好の軋轢を調和するバンドのコモンミュージックを体現することになる。コモンミュージック重視の傾向がある、それから部活動に聴取者はいない、という指摘は鋭い。
 学校の外に広がるインフォーマルな空間で、自己の隠蔽/開示の図式はさらに変装/変奏される。未熟な聴取者に過ぎない男子生徒は、親からポピュラーミュージックを相続し、いずれ自らの嗜好を自分で表現し、独り立ちするために人知れず力を蓄える。インフォーマルな空間でバンド活動に励む男子生徒たちは、より直裁にパーソナルミュージックの嗜好を戦わせる。しかし、ここではコモンミュージックを緩やかに形成するのではなく、親や兄弟から相続された文化資本をより多く保持している者がバンドのコモンミュージックを抑圧的に独占する図式が見られる。コモンミュージックとパーソナルミュージックを一致させることのできないほかのメンバーは、バンド活動を通じて他の優位にあるメンバーから文化資本を相続していく。つまり、男子生徒にとってインフォーマルな空間は、自らの立ち位置を確認しつつ他者と交感する場というよりも、音楽の知識や技術といった文化資本を相続/獲得し、自分たちよりもはるか先を行く大人たちの音楽の世界に参入するため力を蓄える場として意味を持つということか。「ヤングライオン杯」(新日)のように、同世代の闘争が、世代間闘争にも開かれているということか(なんじゃそら)。
 対して、インフォーマルな空間における女生徒の活動は、男子生徒のそれとはまるで異なる。男子生徒が他者との差異化を図り、独自の小宇宙を形成するために音楽を利用するのに対し、女生徒はそれを他者との安定的な関係、ひいては自己と他者の同一性を生産するために利用する。女生徒は音楽性へのこだわりを醸成していく男子生徒とは対照的に、視覚的なレベルでアーティストとの同一化を目指し、いかに憧憬の対象に近づいたかどうかを自己実現の基準とする。男子生徒がコピーバンドからやがてオリジナルな楽曲を製作したいという欲求に駆られるのに対し、女生徒はあくまでも完璧なコピーを追求していく。それが顕著に現われる局面が、コスプレ文化。著者は、ハリウッド映画の映像と観客の関係を論じたL・マルヴィの(懐かしい)フェミニスト的分析を手がかりとし、コスプレに興じる女生徒たちが男性アーティストを客体として見立てることで主体化を果たし、その一方で同性の他の女生徒たちによって見られる客体をも演じている点に注目する。なかなか立ち位置を確保しづらい男性中心的なロックの領域に、異性装による女性性の確認という「戦法」を用いることで参入していく女生徒たちの姿勢を、著者は積極的に評価する。フォーマルな空間やインフォーマルな空間では隠蔽せざるを得なかったパーソナルミュージックを、インフォーマルな空間に立つ女生徒たちは、衣装という「素肌」を堂々と可視化し、楽器に代わる武器として提示するということ。本書の見せ場。
 門外漢なので頓珍漢なことを申し上げるかもしれないが、本書の課題(と思われるもの)をいくつか。結論に近いところでも述べられているが、まず、若者の抵抗や工夫に光を当てる一方で、ブルデュー的再生産の局面、すなわち世代を超えて歌い継がれるスタンダードの再生産過程に関する分析があまりない点が挙げられる。特に学校音楽に組み込まれたスタンダードとしてのポピュラーミュージックの機能、そしてそれに対する生徒の距離のとり方などはまだまだ掘り下げる余地があるのではないか。それから、著者は意識的に排除しているが、本書のパーソナルミュージックはあくまでもパブリックな場において現われる性格のものである以上、音楽の嗜好を私的に形成する「マイ・ミュージック」の空間に対するアプローチもやはり必要だと思われる。対他の関係において表出するパーソナルミュージックを著者は「ホンネ」とあっさり判定するが、ネイティヴインフォーマントの私室やipodのプレイリストなどを参照する必要はなかったか。私としては、インフォーマルな空間にあっても開陳されない「ホンネ」も、(特に女生徒の場合)あるような気がする。「マイ・ミュージック」とも関連するが、インフォーマルな空間のフィールドワークに多くの困難が伴うことを本書は詳らかにしている。フォーマルやセミフォーマルの空間に比べて、インフォーマルな空間の例証は脆弱な印象が強い。私的な空間に近づくに従ってガードが固くなるのは人の常として、もう少し濃密な参与観察(たとえば、少数の若者を3つの空間全てを舞台として追ってみるとか)を織り交ぜることで、例証の精度を上げることはできないか。それから若干不満なのは、学校教育やロック音楽を男性中心主義的で女性に対して抑圧的に働くという断定。先行研究ですでに明らかにされていることなのだろうが、やはりフィールドワークを通じてその布置連関を明らかにするべきではなかったか。若者が空間の移動に応じてスタイルをスイッチしているところに、著者の関心があるのはわかる。しかし、若者の反応の変遷はそれぞれの空間の権力に対する距離と関係があるはずだし、反応の変化を一段深めて考察するには権力の作用に対する考察が不可欠なはず。それからコスプレ文化は、ヴィジュアル系全盛の頃には音楽との関わりが深かったように思うが、今やアニメの方に移行している。今の女生徒は、どのように音楽を通じた自己表現をしているのか、というあたりを知りたい。というような一連の瑣末な突っ込みは、もちろん本書の価値を貶める意図に起因するものではなく、更なる発展形を読んでみたいという一読者のくだらない願望の表れに過ぎない。
 まあ、そんな枝葉末節は置いておいて、なんといっても本書のよさは、自分の過去を追体験するようなリアルさがあって引き込まれるというところに尽きる。私の場合、コモンミュージックは「ディープパープル」を嚆矢とする古きよき正統派ハードロックで、パーソナルミュージックはAngraのようなテクニカルでスケールの大きい楽曲を個性的なボーカルが熱唱するクラシカルなスタイルのものやDemolition23のようにややへたくそでもなんとなくオーラがあるようなパンキッシュなバンドまで種々雑多で、当時は(今も?)まだ固まっていなかったような気がする。Ziggyを聴いている、とか告白したら悪魔に魂を売ったとみなされ、抹殺されかねないムードがあった(どっちが悪魔なんだか)。10年来の友人が、本当は黒人音楽が好きなことをつい最近知ってびっくりしたことなど、いろいろ思い返す。わりと本書の構図は、若者に限定されないものなのかもしれない、とちょっと思う。スタンダード以外のものを拒絶する合唱コンクールのシステムにも「ああその通り」と頷く。よっぽど目立ちたがり屋の女の子でない限り、自分の好きな音楽を公の場で曝したりするようなこともなかったような。はっとさせられることの多い本だった。本書の調査が行われたのは1998年から2001年だというから、そのせいで自分の個人史とオーバーラップするのかもしれない。ああ勢いあまって書きすぎた。