純文学のエンタテインメント化

 

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

 純文学の「エンタテインメント化」現象を、「描写」、「思弁的考察」、「内言」という3つの角度から斬ってみせる解説本。えらそうだし、かなりの悪文だけど、おもしろい。ところで「畢竟(ひっきょう)」連発。よほど好きなんだろう。以下、ただのメモ。
1.「描写」
 対象をまなざす主人公の主体性が後退し、両者の間を往還する視線が物語を「ガイド」していく村上龍
 2.「思弁的考察」
 ひとつの結論に収斂することのない、多方向に拡散していく思弁的な「日常生活」*1を原動力として、ばらばらだがやさしい現代的共同性をテクストの内外に回復しようとする保坂和志
 3.「内言」
 ひとりごとがそのまま地の文をも飲み込み、物語を疾走させるも、やがて立ち上がってくる一本道を語りのオーバードライブで切断するような、胎児的全能感を超える全能感にあふれた舞城王太郎
 これらの「エンタテインメント化」現象のメランコリックな起源となるのが、村上春樹で、2と3の間に2章分割かれている。
 『海辺のカフカ』以前の村上作品では、原因不明のメランコリーに懊悩する主人公が、やり場のない不安の原因を他者に向けてはそれを屠り、次第に自我を肥大させていく。翻って『海辺のカフカ』では、不安を他者への暴力という形でぶつけるのではなく、自分のメランコリーの淵源を覗き込み、そこに「近親相姦を犯してしまったかもしれないという不安」が渦を巻いている様を発見する。しかし、カフカ少年は従来どおり超自我の命ずる「近親相姦の禁止」に服従するのではなく、むしろその超自我の背理、「近親相姦の欲望の禁止こそが欲望それ自体を生み出す」というメランコリックな起源へと遡行し、そこに身を委ねる。つまり、父を殺し、「母なるもの」を犯す。こうした超自我の邪悪さを引き受けているのが「ナカタさん」であり、その意味で平板で出口のない自我に超自我の審級を導入する『海辺のカフカ』の真の主人公は、ナカタさん*2
 ちなみに、『海辺のカフカ』以前の村上作品における暴力の薄っぺらさを、言語(日本語)の「ペラさ」でもってとことん批判的に追究しているのが阿部和重

*1:思弁的考察を、物語の時間を堰き止めて深く掘り下げる物語上の例外とするのではなく、あくまでも物語上の日常をとりとめなく語る手段として用いる。そしてそれは、保坂版共同性をそのまま体現しているという意味において物語の目的でもある。

*2:くだんのアイリッシュSFに出てくる四国は、やはり『海辺のカフカ』に対するオマージュあるいはパロディとして理解すればよいのではないか。舞台は四国だし、海外にも広く読まれているはずなので。妄言。