革砥とタイプライター

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

 

わたしのまわりには、強い者ではなく弱い者、きれいな者ではなく醜い者、勝者ではなく敗残者が集まってきた。彼らにつきまとわれて一生旅を続けるというのがわたしに与えられた運命なのか。自分自身がそうしたどうしようもない落ちこぼれどもに何故か親しみを覚えてしまうということが事実としてある以上、それほど疎ましくは思わなかった。わたし自身、蝶や蜜蜂が引き寄せられる花というよりは、蠅がたかる糞のような存在ではないか。わたしは一人で生きたかったし、自分一人でいると、すっきりとして、何より気持ちが落ち着いた。それでも彼らをきっぱり切り捨てるほど賢くもなかった。もしかすると彼らはわたしの主なのかもしれない。別の姿で現れた父親。いずれにしても彼らがうろちょろしているところで、ボローニャ・サンドウィッチを食べることだけは御免蒙りたかった。

 

 読んでいると時を忘れる。ジャック・ロンドンと並んで、チャールズ・ブコウスキーはわたしが最も敬愛するアメリカ作家のひとりだから。
 詩や短編やエッセイも多く遺されている。どれもユーモアとエロと暴力に溢れた佳作ばかり。いくつか私小説といえる長編もある。どれも素晴らしい。それでもブコウスキーが書きたかったのは、たぶん「これ」だと思う。「これ」と名指すまでに幾年月、「これ」を「あれ」と言えるようになるまで幾年月、「あれ」が文字になり小説になるまで幾年月。きっとブコウスキーはこれを書くために生きたのだろう。あるいは生きるためにこれを書いたのだろう。
 誰にも忘れてしまいたい記憶はある。多くの人は忘れたふりを決め込んで、青い記憶の反芻をうまくやり過ごす。だが、ある種の人間にはそれができない。臓腑の奥にめり込んだ記憶から絶えず腐臭が立ち昇る。仕方なく腐臭を吐きだし、誰の迷惑にもならないようにすぐに腐臭を吸いこむ。アルコールと競馬を無二の友として、ブコウスキーは革砥の腐臭とうまくつきあう他なかった。
 腐臭の源を辿れば、父親に辿りつくだろう。けれども父親もまた腐りながら生きている。父親を殴っても腐乱が進むだけ。父親というものは、いつも父親以上の存在なのだから。
 母親もまた父親の腐臭に毒されている。父親と同じ、苦い空気を吸って生きている。母親を責めても意味がない。母親には母親の宿痾があるのだから。
 だからブコウスキーはひとりになる。泡沫のひとり野球、夢幻のひとりフットボール。「ひとり博打」や「平成四年のダビスタ」、あるいは『ユニバーサル野球協会』のように。
 ひとり遊びはちっとも狂っていない。狂っている現実のなかで、ひとり遊びは腐臭が息づく苗床を囲い込む。腐臭を安全に満たすことができるだけの弾力と厚さをもった場所になる。一番死に近く、一番生きていることを実感できる場所。太陽の黒点のような場所。タイプライターに向かうブコウスキーが座る場所。
 ブコウスキーはいつも勝負している。なにかを賭けている。でも誰とも戦っていない。誰かを殴っていても、きっと誰も殴ってはいない。なにかを掴んでも、きっとなにも掴んでいない。いつも勝負して、いつも負け続けている。書くこともそう。書いた瞬間に、書こうと思ったことが文字の隙間へ零れていく。書かれた言葉はいつも書こうと思ったものからかけ離れている。それでも書き続ける。書くということはそういうこと。
 勝負も遊びも、そしておそらく書くこともばかげている。目的も意味も大義もない。でもきっと目的も意味も大義もないから夢中になれる。誰が見てもばかげているものほど人を真剣にさせるものはない。