本をめぐる遊歩(その1)

書物の敵 (講談社学術文庫)

書物の敵 (講談社学術文庫)

本棚の歴史

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司書

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ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈2〉エッセイの思想 (ちくま学芸文庫)

 テレビを観ている、というより斜に構えて眺めていると、余計なことに気づく。
 CMになると急に音量が大きくなる。バラエティ番組のほとんどは番組のなかにCMを組みこんでいる。どの観客を「抜く」かによって試合の印象を言外に伝える。キャラを演じる現代っ子漫才に対して、顔を描こうとする正統派への回帰を目指す漫才。トークにおける擬音の多用。素材のおもしろさではなく、話芸の方へ偏重、ボケよりツッコミが重用される。天然キャラを消費しながら、ツッコミが生き延びる。海外番組の詰め合わせ。製作費のかかるコント番組の衰退。質よりも量で、タレントの腕よりも編集の技術で。ひとりひとりでは視聴率がとれないので、複数のミュージシャンを組み合わせてなんとなく演出する音楽番組。B級ミュージックフェア化していく音楽番組。などなど。
 こうしてだらだら並べてみると、わたしはあまりテレビを人並みに楽しんでみていないことに気づく。そもそもそれほど観ているわけではないけど、観たら観たでついつい本のように読んでしまう病気のようなもの。とはいえ、わたしなりに面白がっている。どうやら家人には文句に聞こえるらしいが。
 そんなわたしが録画している数少ない番組のひとつに、つい先日第2シーズンが終わった『スコラ』という音楽教養番組がある。ホスト役を務めている坂本龍一が、基礎となる枠組みを聴講生に与えて、そこから彼ら生卵たちが枠のなかに中味を与えるなり、枠を変形させるなりして、応用へともっていく。実践では、そんな音楽づくりのプロセスの楽しさが伝わってくる。もちろん実践だけではなく、音楽史も教授される。今シリーズでは、バッハを型枠にしてそれがどのように壊れていくのか、というクラシック音楽編と、型破りなブルーズをいかにロックへと調教していくか、というロック音楽編、このふたつをテーマに音楽の変容過程を講義していた。つまり、この番組は形式とそこからの逸脱過程として音楽を捉えようとしている。頭と躰で。
 わたしは、音楽を専門に勉強している生徒たちやアマチュアバンドの面々が、坂本から与えられた課題(フレーム)を出発点にして音楽を捻り出す、そんな青臭い実践にかぶりついた。意趣返し、ときどき野趣に「富んだ」アマチュアたち。
 それからそれから、クラシックはなんだか詩学のようなもので、ロックになると散文的になる。ヘヴィメタル京極夏彦か大正年代の小説を見開きにしたかのように画数の多い難語がびっしり敷き詰められている感じで、エアロスミスはそうだな、翻訳小説みたいな感じかな、などなど、刺激されたところないみょうちくりんなところを刺激される。
 撮りだめした『スコラ』をこんな調子で片っぱしから聴き流していて、ひとつ気づいたことがある。
 わたしが気づいたのは、机の上に積んであるおよそ三冊の本。クラシック編には三人のアシスタントがいて、それぞれの専門領域から実学以外の教養をサポートしている。彼らの前にある机に、件の本はある。対して坂本龍一の隣にはピアノがある。文殊の知恵持つ三人が教養としての音楽を教授し、ピアノの隣にいる坂本が実学としての音楽を実演する。それぞれの役割は、舞台セットによって暗示されている。ま、実際の番組進行においては、坂本も他の三人と優劣つけがたいほどの教養の持ち主なので、それほど役割分担がかっちりしているわけではないのだけども。
 テレビ番組のセットに本が詰まった書棚はよく登場する。本をアクセサリーとして用いる代表が、時事ニュースをわかりやすく解説することで人気を博している池上彰の番組だろう。池上が淡々と解説をするその背景には間々本棚がある。よく見ると、その本棚は書き割りだったりすることもある。まあ、本は重いし、やたらと本を並べるとなにかと経費がかかるのだろうから、製作費が目減りしている昨今、本物の本を揃える余裕も意味もない。あとはぱっと思いつく限りでは、確かニュースステーションのセットも本棚ではなかったか。最近全く観ていないのでなんともいえないが、一度背表紙を解読してやろうと眼光紙背に徹してみたことがある。結果、どれもが適当な背表紙をつけたギミック本のようにわたしには見えた。ともかくもテレビは、(偽)書を用いて知の所在を演出する、そんな電気の箱、いや、電気の板。