続・知識人の危機

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

今日、このようにしばしば述べられ、生の崩壊という数限りない兆候の形で書き記されてきた「ヨーロッパ的人間存在(ダーザイン)の危機」は、決して暗い運命でも、見透しえない宿命でもありません。そうではなくて、この危機は、ヨーロッパの歴史の目的論という哲学的に解明されうるものを背景として理解されえますし、洞察することができるのです。しかし、このことを理解するための前提として、次のようなことが必要です。というのは、そのためにはまず、「ヨーロッパ」という現象を、その中心的な本質的核心において捉えることが必要だということです。現在の「危機」という怪物を捉えることができるためには、ヨーロッパという概念は無限な理性目的の示す歴史的目的論として浮き彫りにされなければなりませんでした。つまり、ヨーロッパ「世界」がいかに理性理念から、すなわち哲学の精神から生じてきたかが示されなければならなかった、ということです。そのように理解された時、「危機」とは、はっきり、合理主義の外見上の挫折以外の何ものでもなかったことになるはずです。合理的な文化の敗北の根拠はしかしながら――今まで述べてきたように――合理主義そのものの本質にあるのではなく、ただその外面化のうちに、つまり、「自然主義」と「客観主義」のなかに埋没してしまったことのうちにあるのです。
 ヨーロッパ的人間存在の危機には、二つの出口があるだけです。つまり、本来の合理的生の意味に背いたヨーロッパの没落、精神に敵対する野蛮さへの転落か、それとも、自然主義を終局的に乗り越えんとする理性のヒロイズムを通した、哲学の精神によるヨーロッパの再生か。ヨーロッパの最大の危機は疲弊です。もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として、無限に続く闘いにも挫けぬ勇気をもち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば、人間を絶滅させる不信の炎のなかから、西欧の人間の使命への絶望というくすぶり続ける火のなかから、積もり積もった疲弊の灰のなかから、新しい生の内面性と精神性とをもったフェニックスが、遠大な人間の未来の保証として、立ち現れてくるでしょう。何故なら、精神のみが不滅なのですから。 (フッサール「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」)


 フッサールハイデガー、ホルクハイマーによる講演や小論を集めた『30年代の危機と哲学』は、危機の言説について効率よく雄弁に語っている。紙幅の半分以上を埋める、現象学の祖フッサールの講演は、当時の知識人が抱いていた不安とその対処法の代表例を余すことなく伝えていてとりわけ興味深い。
 フッサールがヨーロッパにおける人間性の危機をもたらす主犯として想定しているのは、自然科学に代表される客観主義のようだ。まあ、これはテクノロジーの発達が戦争の常数となり、また人口や収入など数字で人間を計量する資本主義的―統計的処理が支配的になり、人間が機械として表象されることが退廃だったり前衛だったりした時代のことを思えば、ごく真っ当な危機意識なのかもしれない。
 フッサールは眼前の危機に抗して、自然科学の客体としての自然ではなく、ギリシャ哲学における内なる自然へと立ち返ろうと訴える。ギリシャへと戻れ、というのは、ヴァレリーも同系に括ることができるわけだし、ヨーロッパ危機論の典型のようだ。ヨーロッパをヨーロッパたらしめている基盤には、いつもギリシャ(そしてローマ)がある。フッサールの主張はつまるところ、ギリシャ哲学の精神を介して、主観的な自然を取り戻せ、ということに尽きる。客観を括弧に入れて、主観の冥界をめぐるフッサール現象学は、こうしてヨーロッパの危機を救う言説としての地位をマッチポンプ式に保証される。
 しかしながらフッサールは、客観を退け、純粋な自我のあり様を絶対化してしまうと、それがまた別の客観主義の色を帯びてしまうことに対して鈍感過ぎる。自我という無脊椎の生き物に理論の背骨を通してしまうと、それは主観によって再構成された客体になる。フッサールの基礎づけられた精神は、彼が嬉々として撃っていた客体の標本として展示されてしまう。こうしたフッサールが陥るジレンマに、危機に瀕したヨーロッパが自らをヨーロッパとして自己同定し直すことの困難がよく表れているように思う。*1(続く)

*1:フッサールを読むと、精神の再構成は、ヘーゲル史観の再賦活を意味しているように思える。フッサール現象学は新たな客観主義なのかもしれないけど、フッサールとしては主観と客観を弁証法の果てに揚棄した第三項を目指していたのかもしれない。ヴァレリーのいう精神も、ヘーゲルの延長線上に置いていいのだろうか。たくさんの知識人が聴講にやってきた、コジェーヴヘーゲル講義ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読むにあたってみるべきかもしれないが、お高い。