続・続・知識人の危機

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

 フェニックスの燐光に目を輝かせる天然系フッサールに対して、ニーチェの正嫡ハイデッガーは、目を牛乳瓶の底のようにして眼光紙背、世界を掘る。
 哲学に適した言語をドイツ語とギリシャ語に限る、生真面目なハイデッガーらしい論考がふたつ載っている。しかし、ここに収録された講演録とラジオ演説との間には懸隔がある。わたしはその懸隔を、日和見や修正主義に特有の変節ではなく、真面目さゆえの屈折だと想像する。変節漢との誹りに無言で耐えるハイデッガー思想の脆弱さと強靭さを、わたしはつい感じてしまう。
 まず「ドイツ的大学の自己主張」(1933)は、あらゆる活動や労働や思考を、国家や民族の目的論へ帰結させてしまう類の、「ヤバい」アジ演説なのは間違いない。これだけ読むと、なるほど存在論が戦後思想に於いて旗色が悪いのも肯けるし、なによりハイデッガーイデオロギーの色眼鏡でどうしても眺めざるをえなくなる。<存在>は、すっかりナチズムに包摂されてしまった政治的/イデオロジカルな<概念>のように映る。
 とはいえ、イデオロギーの観点からハイデッガーのテクストを読んでもつまらない。時代の当事者ではない人間が歴史の高みに立って、抗弁する口を持たない亡霊を断じることぐらい簡単でつまらないことはない。別れた時代と寝る義理などないが、過ぎ去った時代に向ける眼差しに、糸涙滲む程度のやさしさは点眼しておきたい。
 危機の視点に立ち返ろう。
 ハイデッガーが考える危機はニーチェの思索に依っている。

 しかも、およそわれわれのもっとも固有な現存じたいが大きな変遷にゆだねられており、パッションにおいて神をもとめた最後のドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの言った<神は死せり>が真実であり、今日の人間が、存在するもののただなかに放置されてあることに真剣たらねばならないのだとした、学問にとってそれはいかなる事態か。

 人間を信念の動揺から守っていた神という信仰の錨を失った今、不明瞭で不安定で流動的な時代と対峙しなければならない。この「大きな変遷」は、<存在>との対面と同義だ。*1つまりハイデッガーにとって、危機は、まず神の不在を、そしてその結果としてそれまで考える必要のなかった<存在>に対する不安が生じたことを意味し、さらにはその新しい不安を払拭する学問=精神の不在を予め措定さえしているようだ。*2
 だからこそ、ハイデッガーにとって<存在>の問いこそがアクチュアルだった。

 われわれが学問の本質を、存在するもの全体の不確かさのただなかで問い続け、裸身のままたちつくすという意味において意志するならば、この本質意志はわが民族に、最奥かつ危険きわまりなき世界、すなわち真なる精神世界を創り出すのである。まさしく、<精神>とは空疎なる俊敏さでも、たわいのない機智の遊びでも、悟性的分析の際限なき行使でも、ましてや世界理性ですらないのである。精神とは存在の本質へむけての根源的に規定された決意である。民族の精神世界とは一文化の上部層でもなければ、まして有用なる知識や価値を生みだす工廠でもない。それは、民族の血と大地に根ざすエネルギーをば最深部において保守する威力、すなわち民族の現存をば、最奥かつ広汎に昂揚せしめ、ゆりうごかす威力なのだ。

 ハイデッガーに準拠して「精神」について総括しておこう。
 主体の内外へと出入りする、変幻自在、素粒子のようなヴァレリーの「精神」。現実を現実として生きるために現実の外を真面目に求める、ホイジンガ流遊びの「精神」。喪われた主観性を取りもどすフッサールの「精神」。ヨーロッパにおける危機の言説に現れる精神それ自体に、なにか目的や意味があるわけではないようだ。精神は現在地と目的地のあいだを埋めようとする媒介項のように、極言すれば両者の懸隔を埋めた途端に消えてしまっても構わない「さなぎ」のようなものに、わたしには思える。ハイデッガーの精神も、「存在の本質にむけての根源的に規定された決意」に留まり、確かな実線には程遠い単なるベクトルにすぎず、<現存在>発<存在>行き、建設途中(あるいは建設予定)のまま工事を待つ破線状の線路としてイメージしたほうがしっくりくる。*3
 そして、危機からヨーロッパを救う鍵は精神の再建にある、とする点においても、ハイデッガーは、ヨーロッパの危機に口角泡を飛ばす、バブリーな知識人層と共鳴している。*4 どの局面に危機を見出すかは知識人それぞれの個性と偏向がある。しかし、ヨーロッパの危機を思索する手段や道筋が「喪われている」ということに対して彼らが抱く危機感に関して言えば、当代きっての碩学たちの振る舞いに一糸たりとも乱れはない。彼らをつなぐ結び留めは二か所。すなわち、危機を脱出するための手段が異口同音、「精神」と呼ばれている点、そしてその「精神」が今では喪われてしまっているヨーロッパ共通の地盤へと知識人たちの意識を駆り立てる修辞として働いている点。ヨーロッパという概念と同様、「精神」にも実体はない。しかし「精神」の働きは、(実体の有無をつきとめがたい)ヨーロッパの結束を強く呼びおこし、ギリシャ・ローマ世界への郷愁を運んでくる。危機の言説に用いられる修辞の根源には、「精神」を経由して発露するノスタルジアや温故知新の感情が眠っているようだ。(続) 

*1:ハイデッガーについてはろくに知らないので、<存在>について軽々しいことは言えないが、わたしは<存在>を<他者性>、あるいは死のようなものとしてイメージしている。

*2:蛇足だが、<神は死せり>の観点からニーチェを読んでしまうと恐ろしく退屈だと思う。中世世界から信仰は形骸化し、人間主義が支配的になってきていたのだから、ニーチェの宣言は少なからぬひとたちが通念として共有していた自明の事実を追認したに過ぎない。ニーチェにとって大きな意味を持っていたのは神の死ではなく、地獄の喪失だとわたしは解釈する。ポオとボードレールに始まり、ランボーバタイユユイスマンスなどなどへと連綿と続く「夜の思想」は想像力の源泉としての地獄をいかに取り戻すか、あるいはその代替物をいかに創出するか、という一点へと向けられている。わたしは、ル・クレジオ物質的恍惚 (岩波文庫)を、夜の思想史に対するひとつの回答だと思っている。

*3:ハイデッガーの場合、精神を学問と言い換えても問題なく読める。ただ、わたしはハイデッガーの著作に慣れ親しんでいないので、こうした解釈が専門の見地からして正鵠を得ているかどうかは心許ない。門外漢のわたしにとって解釈は決定稿ではなく、思考の痕跡にすぎないので悪しからず。一週間で変節を遂げるかもしれない。

*4:ヴァレリーフッサールと同様、ハイデッガーギリシャ哲学を精神の基礎として考えている。