ふたりの暑苦しいマニエリスト

夢十夜を十夜で (はとり文庫 3)

夢十夜を十夜で (はとり文庫 3)

 パリに滞在しているあいだ、寝る前にすこしずつ読んでいった。
 高山宏の本は、講義を採録したものがおもしろい、とわたしは思っている。熱を帯びた語り口がねっ転がっているこちらに淡々と読むことを許さない。むしろ輾転反側する破目になる。
 高山は、学者を前にすると熱が上がりすぎて、ときおり居丈高にみえてしまうこともある*1。しかし実際、学魔や超人と自称するぐらいなのだから、彼が実際に居丈高であっても構わないとわたしは思う。あれだけの該博と弁舌を備えているのであれば、凡人の常識に押し込める方が無理というもの。敵は多いだろうけども。
 わたしはただの物識りは嫌いだけど、ここまで博覧強記で一頭地を抜いていればそれはもうひとつの「孤性」であり、彼は物識りの範疇にはとっくにいない。もちろん、マニエリスム的なものをマニエリスム的に扱う手法には、わたしは否定的だけど*2、個別の事例に対するアプローチの角度や強靭なる連想の翼にはいつも「驚かされている」。そう、驚かされている。そういうわけで、高山の目論見はいつもかならず成功する。
 しかし漱石の『夢十夜』を学生たちとともに解釈していくこの本では、博覧強記で鳴る高山節はおとなしめで、むしろ昔懐かしい精読のかほりが鼻先をくすぐってくる。夕餉よろしくおかわりの連続で、一夜につき一夜の約束を反故にして、ついつい次の夢へと手を伸ばし、いつのまにか夢の中にいることも一度ならずあった。読了に十夜費やさなかったのはいうまでもない。まことに教育熱心な先生だ。この本に関して特に言うべきことはない。言うべきことはすべてこの本に語られているし、わたしなどがなにかをいうよりも、この本の「小口」が叩く大口のほうがずっとおもしろいから。
 
 
 世のなかにはこんなになにかをおもしろがって熱っぽく語れる人がいる*3。学生にとって、教師の存在理由はこれに尽きると思う。
 八木敏雄の「遺書」も独特の熱を帯びていた。意地悪に言ってしまえば、まとめる機会のなかった論文その他を「マニエリスム」という便利な錬金釜にぶちこんでごった煮にしてしまった、ただそれだけの本かもしれない。古くは60年代ぐらいに書かれた文章から、ごく最近のものまで並べられている。19世紀アメリカ文学を専門にしている方々からすれば、もしかしたら内容も「耳タコ」に属する古臭いものなのかもしれない。しかし、わたしにはそんなこと関係ない。というのも、この本、なんだかとっても熱いからだ。
 日本に帰って来てから数日であっというまに読んでしまった。思いつきや発想の段階に留まっているものも多いし、誤魔化されたように感じる部分も多い。でも、どうやらわたしには関係なかった。
 わたしは、本を読んでいるようで読んでいないように感じることがある。ある本を媒質として、自分が今まで読んだ本のわからなかった部分やおもしろくなりそうだと感じていたトピック、あるいは全然つまらないと思っていたもの、そういう雑多な物事が(勝手に)「想起」されて、化学反応を起こす。字面を追いながら、頭の中ではぜんぜん別のことを考えている。そうして、頭の中の混沌がどんどんひどくなる。
 そういう本をわたしはおもしろいと思う。もちろん、論の流れや本の構造を折り目正しく整理しようと思えば、わたしでもそれなりにはできるだろうけれど、読み終わったあとのわたしは、同じようなことを別のことのように考え始めていることだし、優秀な書評子ならウェブ上にたくさんいることだろう。*4
 熱気を浴びて、わたしはどんどん賢さから遠ざかる。
 わたしも命数尽きるまで、これぐらいの熱を放散する、地球に厳しい人間でありたいなあ。
マニエリスムのアメリカ

マニエリスムのアメリカ

 

*1:たとえばいつかのポオ学会のシンポ

*2:たとえばいつかのポオ学会のシンポ

*3:もちろん、積んでいるエンジンの排気量はひとそれぞれだろうけど、パワフルなエンジンではうまく走れないコースもあるのだから、小さなエンジンでもいいや、と徒歩のわたしは思っている。

*4:ただ、八木はトクヴィルのことについては論じていないけど、わたしはこれに刺激されてトクヴィルを読もうと思った、ことだけは告白しておこう。