第3章 先立つ力

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

The Inner Touch: Archaeology of a Sensation (Zone Books)

 (承前)
第1章 "Murriana" http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121016/1350345030
第2章 「エステティック・アニマル」 http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121019/1350626926

 
 ヘラー=ローゼンがアリストテレスの五感批判に見出したものは、現代においては所与と看做されている意識が不在であること、そして植物と動物との境界を画すとされるアイステーシスの捉え難さだった。アイステーシスの出来事は、五感それぞれの発現として分類できる。前章で確認したように、アリストテレスの五感の理論は触覚の段階で崩れてしまう。とはいえヘラー=ローゼンは、アリストテレスの蹉跌に見えるものを、感覚器官と対象とが媒質を介して接触することによって感覚五種の出来事は起こる、という新しい感覚論の先触れとして素描してみせる。触覚的なものこそが、感覚を発生させる原=感覚であるというわけだ。哲学の黎明期には、触覚的なものを基礎とした美感的存在、「エステティック・アニマル」が構想されていた、というのがここまでの話だった。*1
 それでもなお、「エステティック・アニマル」には謎が残る。個別の感覚の発生は、感覚器官‐媒質‐対象の接触によって説明できる。だが、アイステーシスがどのようにそれぞれ分け隔てられた五種の感覚的出来事として区別されうるのか、という五感の棲み分けの問題が依然として手つかずのまま残されている。
 たとえば、視覚は眼と対象物とが「半透明」(ディアファーネス)と呼ばれる光/闇という二極間のスペクトラムのどこかで出会うことによって成立する。対象がマグカップだとしよう。夜目の通用しない暗闇の許でも、太陽を直視したときと同じぐらいの眩さの許でも、私はマグカップを見ることはできない。視覚が成立するのは、そのふたつの極のあいだに広がるどこかの点だろう。昼下がりの日向、白色電球が点いた部屋、あるいは夜の帳が降りた蚊帳の中、蛍がマグカップに留まるひととき。そんな半透明の膜を介して、私はマグカップを目に認める。それは「白い」。
 しかし、問題なのはこれからだ。
 マグカップのなかには、馥郁たる香りを振りまくブルーマウンテンが注がれていたとしよう。私は空気を媒質として、その匂いを苦みと甘みのあいだで嗅ぐ。程よい酸味が挽きたての豆の香ばしさに紛れて鼻腔をくすぐる。私はそれを「酸い」と感じる。
 私はマグカップを眺めながらブルーマウンテンの匂いを嗅いでいる。私は「白い」を視覚的に、「酸い」を嗅覚的に経験している。問題はここにある。いったい私は「白い」と「酸い」をどのように区別しているのだろうか。眼球と鼻腔は当然異なる感覚器官であり、また対象物もマグカップとブルーマウンテンとは異なる。両者の間にある媒質も「半透明」と「空気」というぐあいにそれぞれ異なるものである。しかし、問題はそこにはない。問題なのは、視覚・嗅覚それぞれの外的過程を経て生起する「白い」と「酸い」とを、私は内的にどのように区別しているのか、という点である。
 つまりこういうことだ。視覚には光‐闇、嗅覚には甘さ‐苦さ、というそれぞれ感覚に固有な判断の幅が与えられており、私は双極を隔てる広がりのどこかで感覚する。しかしながら、私には光/闇のあいだで決定された「白い」と、甘さ/苦さとのあいだで決定された「酸い」とを区別するための判断基準をもたない。「白い」と「酸い」のふたつを、共通の媒質に載せることはできない。つまり、視覚と嗅覚に共通の媒質は存在しない。もし私がアリストテレス理論に即して作られた人間であるなら、「白い」と「酸い」が同時に生起したとき、なにが起こったかよくわからず、眼前のマグカップが「酸い」、見えないブルーマウンテンが「白い」、というような感覚の混同に戸惑う可能性すらある。つまり、私と外的対象とを関係づける五感発生の原理は、私に経験される五感間を弁別するという内的原則を備えていないことになる。
 アイステーシス理論が五感を区別できないのだとしたら、それらの出来事を区別する仕組みが別に設けられていると考えるのが自然だろう。感覚発生の理論で説明できる五感を、それぞれ互いに異なる特殊な感覚として弁別・認識することができるようにするもうひとつの感覚。それはなんだろう。
 アリストテレスは、さまざまなところで、さまざまな角度から、この「感覚することの感覚」について思索を繰り返している。すべての感覚にとって、対象物が認識されるためには、「共通の感知可能な性質」(the common sensible qualities)、すなわち、「運動、静止、かたち、大きさ、数、統一」(motion, rest, fiure, magnitude, number, unity)が認識されなければならない。これらは、第2章で論じた五感のフォーミュラでは捉えられない、感覚の余剰としてアリストテレスを悩ませる。もしこの難題をむりやり五感の理論に当て嵌めるなら、視覚という感覚は、目に「見えるもの」だけではなく、目で「見ている」ことの事実をもその感覚対象として含んでいなければならないことになる。つまり、視覚と他の感覚との差異を、視覚は「見えるもの」と同時に見ていなければならない。このように、「視覚についての視覚」がなければ、見ていること自体が視覚的な経験として認識されない。この「メタ・アイステーシス」とでも呼ぶべき感覚の感覚がなければ、先述の「白い」が、同時に生起している「酸い」の感覚となぜ異なるのか、説明できない。
 しかしながら、アリストテレスが各所で「共通感覚」(the common sense)、「全体感覚」(the total sense)、「主人の感覚」(the master sense)、「先立つ感覚」(the primary sense)と名づけるこうした「メタ感覚」は、「メタ思考」の常として、五感に先立つ力を想定するとき、その先立つ力にさらに先立つ力がある可能性を払拭できない。感覚の感覚の感覚の感覚の・・・といったふうに。論理の無限退行。そして永遠に礎石を見出すことのない無限退行は、最初に定立した五感の理論の瓦解さえ告知する。
 ヘラー=ローゼンによれば、アリストテレスを悩ませた「メタ感覚」の難題は、多くの研究者の争点となってきたという。その困難は、アリストテレスが「心理作用」(mental act)や「意識」といった概念を持たなかったことによるのかもしれない。あるいはむしろ、その困難を、カントの「統覚」(apperception)理論の先触れとして積極的に評価すべきものなのかもしれない。また、太古の難題を、現代の脳科学研究の進展に伴って浮上してきた「心身問題」の系に繋ぐこともできるかもしれない。いずれにしても、アリストテレス研究者たちが「メタ感覚」の問題を前にして参照したがるのは、空気のように慣れ親しんだ意識の問題系である。
 

[アリストテレスの]中心的感覚という概念は、つまるところ、原始的ではあるが、ほぼ意識に充当するものを思い描くために使われている、としてかまわないだろう。

 ヘラー=ローゼンは意識を参照枠として用いながら、あるいはすべてを意識に還元するためにアリストテレスの「メタ感覚」の議論を進めることに疑義を呈する。あくまで彼は猫の側に立つ。

 

古典的哲学者の先立つ感覚が重要なのは、それが意識という現代的観念に似ているからではなく、意識から切り離されているからだ。

 かくしてヘラー=ローゼンは、類似性よりも断固たる差異を認める、という批判の道を選び取る。論理的無限退行を拒否し、整合性を優先するなら、アリストテレスの感覚理論は、第2章で論じたように、その根源に触覚的なものがあることを指し示している。ヘラー=ローゼンの問いは、アリストテレス研究のベクトルを逆撫でにする。つまり、彼が「内なる触発」(the inner touch)と呼ぶもの、すなわちさまざまな触感や接触の出来事が、意識のほうを構成しているのではないか。「内なる触発」こそが意識や感覚といった区分けを超えた「先立つ力」(the primary power)、生の正体ではないか。ヘラー=ローゼンは断固として猫になる。
 

近代の「考えるモノ」は、未だ暴かれることのない、ある過去を蔽い隠している。その昔、コギトと知覚、思考と感情の諸関係は実際の成り行きとは違ったものだった。その昔、感覚、すなわち触感的存在の先立つ力が、あらゆる動物の生の謎を解く鍵を握っていたのだ。もちろん、他の動物より上位に立つことになる二本足で立つ動物は言うまでもない。

 
 

*1:関連して、UTCP ワークショップ「身体の思考・感覚の論理」2004. 12.11 第三セッション:感覚から歴史へ「触覚、この余計なもの̶̶マクルーハンにおける感覚の修辞学」のレジュメをみつけた。参考までに。http://www.utcp.jp/_past/data/3_kadobayashi.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9+%E5%97%85%E8%A6%9A+%E8%8B%A6%E3%81%BF+%E7%94%98%E3%81%BF'