なんとなくやってみる―弱気な決意表明

 最近のブログブームに乗るわけでもないが、若干の暇つぶしと自分の日常を顧みるべくなんとなく書いてみる。いつまで続くか、果たして何かまともなものが書けるのか、はなはだ疑問だが、少なくとも何もしないで日々が過ぎていくよりはましだ、と自分に口実を与えてなんとなく書いてみる。
 何か自分に書けるものがあるのか、心底不安だが、あまりにも自分の日常が無為に過ぎていることを吐き気がするほど思い知ることだけは請け合い。というネガティヴな追い込みはやめて、とりあえず日常を綴る意気込みを語ってみる。一応人文学系の研究者の端くれではあるので、若干アカデミックなことをこぼすこともある。だが、おそらくはテレビに向けて発する独り言や、およそ人に自慢することなどできない戯言でスペースは埋まっていくのだろう。ああ、しょっぱい。
 
 初日なので、一日を振り返ると、鬱。まず、歯が全部抜ける夢を見て、歯を念入りに磨く。すでに夕方。どこぞの旅客機が大変なことになっていたようだ、ひとしきりチャンネルを回す。風呂に入る。タバコを吹かす。吹かす。吹かす。よゐこの濱口がもやしを食っている。冷蔵庫を開ける。キャベツがあったので、ラーメンに入れて食す。タバコを吹かす。吹かす。吹かす。吹かす。飽きたので学校に向かう。アメリカのYAHOO!でチェスをする。ヤンキーども、意外に弱い。最後に大物がやってきて、コテンパンになる。逃亡。カップ焼きそばを食す。タバコを吹かす。吹かす。吹かす。鬱。

 明るい話題を。博論がようやく半分。テーマは存命中の某黒人女性作家と同時代の移動の言説との関係。などというと格好よく聞こえるが、内容はとても人に言えたものではない。博論書いた人って凄い、とつくづく思う。もう2ヶ月ない。やっぱり今年は無理か。やっぱり、鬱。

 本を一冊紹介。前著Black on Blackにて、アフリカに対するアメリカ黒人の思い入れや偏見の総体「エチオピアニズム」の変遷について論じた研究者John Cullen Gruesserの新著。今回はアメリ黒人文学研究とポストコロニアリズムとの接点を探っている。黒人文学は今や当たり前のようにポストコロニアル的視点から読まれているけれど、その接点について論じた著書は意外に少ない。結局、両者はお互いがお互いに影響を与え合う幸せな関係にあるそうだ。Gruesserは、Homi Bahbaみたいになんでもかんでもポストコロニアルで括る"inclusive"なやり方はお嫌いなようで、アメリカ黒人の特殊性に配慮する。個々の読みでは狐につままれたような箇所もあるけれど、総論OKといったところ。個人的にはポストコロニアル黒人文学の関係よりも、「Signifyin(g)」(先行するものを読み替えていく黒人の修辞戦略)と「Black Atlantic」(大西洋を跨いだ文化の変容)の関係が気になるところ。それに、ポストコロニアル=対抗言説という理解はいいのか。ポストコロニアルは支配者の言説と対抗言説との間を見るための視点のように思うのだけど(まあ、それ自体はコロニアルに対抗しているからいいのだが)。あまり支配者と従属者をエッセンシャルに位置づけすぎると、金太郎飴になるような気がする。でも、黒人文学批評と黒人文学との関係はフレキシブルに論じてあって、面白い。特にPaul Gilroyの「黒い大西洋」にジェンダー批判を加えるところなど、ありそうで自分は見たことがなく(James Cliffordは若干言及していたが)、面白かった。時間の都合上斜め読み。

Confluences: Postcolonialism, African American Literary Studies, And The Black Atlantic

Confluences: Postcolonialism, African American Literary Studies, And The Black Atlantic

Amazonギフト券欲しい!