戦争責任

 8時ごろ起床。昨日、ダウンタウン浜田のクイズ番組で、ムッシュかまやつが「こんばんは、井上順です」といっていたのを思い出す。最近エアガンで撃たれる事件が多発しているが、そういえば私も「真っ赤なアフロ」時代に一度信号待ちの間、太ももを撃たれた事がある。痛いのでやめましょう。
 高校教師をしている友人O君から電話があった。なんでも、高校の文化祭で放映するプチ映画で「電車男」を演じることになりそうらしい。何のアドバイスもできないが、生きて帰って来い。どんなにサブくとも骨は拾ってあげよう。
 
 読売新聞で「戦争責任」特集が始まった。知らなかったが、戦後間もない時期に2度ほど日本独自に戦争責任を議論する動きがあったのだという。日本が何もせずにただ東京裁判の結果とGHQの支配を甘受していたわけではないということか。「戦争責任」という概念は、第一次世界大戦後ドイツで生まれたらしい。当時の「戦争責任」とは、戦争によって生じた損害を敗戦国が補償するものであって、戦争を生じさせた諸悪の根源を追及するものではなかった。その「国家賠償」の意味合いが強い「戦争責任」の概念が変わるのは、第二次世界大戦後である。第一次世界大戦後にもう戦争を起こしたくない欧米列強の淡い期待とは裏腹に、国際連盟の機能不全の下、第2次世界大戦は勃発する。米国を始めとする連合国は、これ以上の災禍を生じさせないために、責任の所在を明確にすべく「戦争責任」の概念を「国家賠償」から「原因追及」へとシフトさせた。その新しい「戦争責任」の概念が採用されたのが「東京裁判」である。読売の論調では、東京裁判において、この「原因」が敗戦当時の日本の指導者層と完全に一致するものとして扱われた点を問題にしている。つまり、日本側から見た場合、「原因」は「開戦責任」や「敗戦責任」へと、また連合国対枢軸国という枠組みを離れて、「アジア諸国の被害を起こした主因」という対象を限定する見方へと分節化される。こうした東京裁判に端を発する「原因」という戦争責任を分節化し、省みるのが今回の特集の目的であるようだ。
 こうした読売の戦後60年を区切りとして内省を深める努力は賞賛に値する。しかし、多角的に捉えようとしているとはいえ、この「原因」という見方そのものが未だに東京裁判の「戦争責任」の亡霊を引きずっている、ともいえる。読売は戦争責任が生じる瞬間を戦争が始まるときと戦争が終わるときの間の中に閉じ込め、その中でいつ終わるとしれぬ「原因」特定のゲームを戦っているように見える。結局のところ、「原因」は無数にある。東条英機が悪いとも、昭和天皇が悪いとも、あるいは時代が悪かったとも何とでも言いようがある。議論は尽きない。最終的には日本が悪かった、という何のオチもないところに行き着くのがオチだ。そうした議論を尽くすべく努力することももちろん大事だが、より大事なのはその議論が決して終わらないというところにこそあるのではないか。つまり、本当の「戦争責任」は戦争の原因として特定される過去の客体ではなく、「戦争責任とは何か」という終わらない議論を続ける現在の主体にこそあるのではないか。議論の主体には、当然存命中の戦争体験者だけではく、「戦争を知らない世代」も含まれる。さらにそれは敗戦国日本の人々だけに限定されない。戦勝国側の欧米諸国の人々、韓国、中国を始めとするアジア諸国の人々、あるいはそれ以外の人々も含まれる。「戦争責任」が「すでに終わった過去の原因」であるとするなら、それは「敗戦国日本」だけをスケープゴートとする議論に終始してしまうし、戦勝国側が現在を過去から演繹的に肯定する過剰なナショナリズム的美化運動を抑止することにはならない。「戦争責任」が過去のある時点にすでに終わったものとして定義され、過去と現在とを切り離すものとして機能するのであれば、それは国際政治の道具以上の何物でもない。議論を生産的にするためには、「戦争責任」を「戦争の原因」ではなく、「戦争の原因について語る言説」として考えなければならない。であるならば、その言説上の主体こそが最も問われなければならない「戦争責任」論争の本丸である。戦争を語る者が背負う責任こそが、21世紀の「戦争責任」ではないか。
 戦争責任の言説の主体に課せられる責任を問う場合、加害者/被害者という旧式の枠組みは通用しない。その枠組みは、敗戦国/戦勝国という枠組みを踏襲しながら、戦争中の責任を恒久的に引き継ぐ国家と戦後様々な形で変容する国民とを連続的に捉えることになるからだ。なぜ、国家と国民とを連続的に捉えてはならないか。それは、その思考こそが国家総動員法で国家と国民とを一体的に捉え、戦争へと導いた一因であるだけではなく、未だに戦争責任について語る主体を戦勝国/敗戦国という「東京裁判」当時の国家間のパワーバランスへと議論が還元されてしまうからだ(つまり、戦争責任について日本人が語る場合、「敗戦国日本」という大きな立場しかとることができないのみならず、現在の立場は考慮されず過去の立場を無批判的に引き継ぐことになる)。戦争責任について語るのは、実際問題、国民=国家ではない。国家に対して異議申立てをし、責任の所在を追及する諸国民である。つまり、「戦争の原因について語る言説上の主体」は、国家と分かちがたく結合した国民ではなく、国家に保護されると同時に国家のあり方を監視する準=自律的な「人々」である。中国が「反日」という国家の枠組みの中で戦争を語る、また韓国や日本が国立の戦争記念施設のみで戦争を歴史化するという現状では、依然戦争責任を語る主体は国家のままであり、「戦争責任」の議論は「戦争を起こした原因」に留まる。戦争が国際法上国家間の争いとして定義され、また反テロリズムが「テロとの『戦争』」と再び国家の枠組みで捉えなおされる今、「戦争責任」を「原因」ではなく、「原因について語る主体」へと移し替える議論は、戦争という概念の根幹に座る国家と本来は多種多様な国民とを連続的に捉える「国家の言説」を浮き彫りにし、国家以外の新しい語りの主体の登場を要請するのではないだろうか。
 

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関連して、高橋哲哉の『記憶のエチカ』と岡真理の『記憶/物語』は、歴史を語る権利を持たない被害者の視点に立った記憶について論じている。参考になる。