杉村クンとちびくろさんぼ

 朝6時起床。昨日から自炊を始める。張り切って煮物を作る。日頃、食べている弁当がいかにまずいか思い知る。しかし、思わず2日分ぐらい作ってしまい、しばらく煮物。
 杉村太蔵議員が大人気らしい。あの「料亭に早く行きたい」だの「BMを買うのが夢だった」などのバブルの幻像を引きずる26歳の初当選議員だ。昨日はなんでも「所信表明会見」なるものを開いたようで、所信がないということを赤裸々に表明していた。でも、世の国会議員に対するイメージがどれほどのものか明らかにしてくれた点では、大きな貢献だと思うね、杉村クン。それはさておき、3日間の連休中に何をしていたかと聞かれ、「読書」と答える。おお、なかなか有望な青年ではないか、と思いつつ、冊数は「一冊」…。何を読んだのか、と聞かれた杉村クン。「プライベートに関するご質問なので、ご返答は差し控えさせていただきます」。大物。しかも、横向いてしたり顔。なんだ、普通に受けを狙っている好青年じゃないか。日本の未来は明るい。ポスト小泉は君のものだ。
 
 今日の読売新聞に「ちびくろサンボ」の再版に関する記事が載っていた。思えば、80年代末期に市民団体の抗議を受け、絶版になった「ちびくろサンボ」だが、どうやら海外のメディアはこの絶版騒ぎに当時の貿易摩擦などの反日の機運が影響していた、と見ているようだ。日本では「2ちゃん」あたりでも随分叩かれていた「黒人差別をなくす会」などがこの騒動の主犯格として有名だが、どうも短絡的なPCだけがこの騒動の原因ではなさそうだ。とまれ、もともと英国人女性がインドを舞台に作った物語を、アメリカ人が黒人風の絵に差し替えて出版した「ちびくろサンボ」の流通過程を勘案するなら、自分たちが作り変えた人種ステレオタイプを日本に輸出しておいて、それが差別的だの何だのと難癖つけたアメリカ人の厚顔無恥さには恐れ入る。今はオリジナル版(径書房)も出ているそうだが、いずれにしても「サンボ」(sambo:いたずら好きの滑稽な黒人像)が「サンボマスター」の「サンボ」ではない(想像するに格闘技の「コマンドサンボ」か)ことぐらいちょっと考えたらすぐわかるので、改題は検討したほうがよさそうだ(「ちびくろさんぽ」なんていうのがあったような)。

ちびくろサンボよすこやかによみがえれ

ちびくろサンボよすこやかによみがえれ

Amazonギフト券欲しい!”関連して『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』は、同書に集まった過剰なPC批判について歴史的背景から丁寧に解説し、再考を促す好著。一読あれ。
 
 The Shape of the Signifier(『シニフィアンのカタチ』)の “posthistoricism” の章を読み終える。Michaelsが “posthitoricist” として括る「歴史は終わった」という見地から論じている論客は、結局差異の戯れの中に投げ込まれる。記号論的には、シニフィエからシニフィアンへ、政治学的には(主にJudith Butlerのhate speechを巡って)「(対象が)何を意味しているのか」から「何が意味させているのか」という主体の位置確定へ、解釈学的には有機的な意味から無機的な情報へと、それぞれ「歴史の終焉」を契機に力点が変わっていく。イデオロギーの対立の時は「見解の相違」(“disagreement”)があったのだけど、 “posthistricism” の枠組みでは、それがなくなり、あるのはただ差異のみ(differences without disagreement)、ということになる。構造主義ポスト構造主義という括りだけではなく、脱構築派を中心とする現代思想の流れをこういう風にも説明できるんだな。結構、理論の教科書的な匂いがしてきた。言葉遣いは平易だし。でも言い回しがくどくて、ちょっといやになるけど。
 拙訳。「私がここまで論じてきたのは、あらゆる理論は、正しい解釈や間違った解釈といったものをありえないものにしようと邁進しなければならないし、またそれだからこそ解釈それ自体を駆逐することに懸命にならなければならない、ということだった。だから、歴史の終わりは解釈の終わりの別名に過ぎないのだ、と。」(81)
 冷戦終結が歴史の終わりを意味した時代に生まれた理論は、解釈を抹殺した。あるのはただ「シニフィアンのカタチ」のみ。歴史は終わって、理論が生まれた。理論は解釈を終わらせた。ゆえに歴史の終わりは解釈の終わりである。
 Michaelsは付け加えて、「[冷戦終結の時点で?]歴史が終わっていたのなら、それは理論上終わっていただけである。理論は歴史上すでに終わっている」とかいっている。こういう言い回しが延々続くのがしんどいのだけど、要は “posthistoricism”は歴史を終わらせたけど、理論を進展させる中で自分も死んじゃった、みたいなことか?(ミイラ取りがミイラになっちゃった?)ポストモダン思想の当然の帰結みたいなところでしょうか。多分、この後は歴史が理論に対して復讐するみたいな話になるんだろうな、やっぱり。でも歴史化を徹底する中で今度は歴史も袋小路みたいなことになるのか、と予想してみる。次は “prehistoricism”。すっかり備忘録化してしまいました。