テクスチュアリティとセクシュアリティ

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

著者のブログはいつも拝読させていただいているが、その博識と精力的な対話の姿勢には驚かされる。分野は異なるが、既存の文学制度に対する疑問には共感するし、またこうした接点はセクシュアリティジェンダーといった分野を概説本程度の知識でなぞり続ける不届き者に、認識外の脳内シノプスを新たに接続する不断の契機をもたらす。新歴史主義的批評(医学史が数ある得意分野の中でも有力らしい)とラカンジジェク理論を下敷きとしたクィア批評という、食い合わせの悪そうな問題圏同士を併せ持つハイブリッドな著者の見識は、歴史と理論との対話の中で至極独特なものへと練り上げられたようだ。本書は主として理論(精神分析クィア批評)の部分に焦点を当て、<読みの快楽(享楽)>と<快楽(享楽)の読み>を「混線」させるある種危険な磁場を要請する。
 1973年にアメリ精神病理学会(American Psychiatric Association)が精神障害の症例から同性愛を除外して以来(あるいはそれ以前から)、ゲイ/レズビアンを自称する人々は確実に市民権を得てきた。近年、欧米では要職にあってもカムアウトする事例が後を絶たず、同性婚を認可する自治体も現れ始めている。おそらくはそうした社会的な認識の帰結こそが、フェミニストジェンダー批評から「クィア」な形で派生したゲイ・レズビアン研究と総称される “industry” を生み出した。しかしながら著者はそうした一般に流布した「クィア」批評の「クィア」な出自を追認するのではなく、それをゲイ/レズビアン批評から分節化することによって、「クィア」批評の「クィアネス」を正確に見定めようとする。
 もっとも「クィア」批評は、異性愛/同性愛の二文法を脱構築しようとするものであるから、異性愛の抑圧体制に異議申し立てをするゲイ/レズビアン批評をも広く含むものだ。しかし、「脱構築的なアイデンティティ批判」に基本原理を持つ「クィア」批評は、異性愛構造の変種として構築された「クィア」という集合そのものを脅かす。「クィアな人々は、奇妙であること、ずれていることによってのみ同じ集合に入るのであり、ゲイもレズビアンもS/M者も、それをいうならヘテロセクシュアルも、歴然たる差異を生み出すような歴然たる同一性をもってはいない」(10)。ゲイ/レズビアン/S/Mから成る「クィア」は、異性愛を自明のものとする社会に対して例外があることを示すことによって異性愛の前提を突き崩すが、と同時に「クィア」自体が規範からのずれを構造原理として持つがゆえに「クィア」自身をも突き崩すことになる。「クィア」はゲイやレズビアンを含み持つことによって異性愛構造に対する対抗言説として機能しながら、返す刀でその連帯性をも批判的に曖昧なものに変えてしまうのである。
 ここにおいて、「クィア」批評はゲイ/レズビアン批評と分かちがたくも一線を画する。構築主義本質主義の枠組みでは「クィア」批評は前者に属し、ゲイ/レズビアン批評は後者に属する。「クィア」批評は、アイデンティティポリティックスに与するゲイ/レズビアン批評に対しても批判的に働くのだ。ホモソーシャルホモセクシュアルが互いに置換可能であることを示すことによって、ミソジニーという問題は残るにせよ、「クィア」は異性愛の構造と代補の関係(必要だが正当化できない関係)を築き、異性愛の構造が持つ「正統的な」セクシュアリティの規範を攪乱する。だからこそ、「クィア」批評はイヴ・コゾフスキー・セジウィックが一連の著作で提唱してきた批評装置「クローゼット」を必要とする。
 「クローゼット」とは、一義的にはホモセクシュアルな欲望を隠す小部屋である、と仮定できる。その秘密を隠蔽するクローゼットの存在は、ホモソーシャルな関係(同性間の親密な関係)の中で醸成される異性愛を保証する(他の同性が異性を欲望することで異性愛の構造が生まれる)。ここにおいて、異性愛はホモエロティックな同性愛の欲望を隠蔽・抑圧することによって成立している、と考えられる。「クィア」は異性愛に対する対抗言説となる。しかし同性愛/異性愛本質主義的な観点から捉えると、二項対立構造は保持される。なぜなら、「クローゼット」の中身をホモセクシュアルとして措定する行為は、「クローゼット」の存在そのものを否定することに繋がり、社会的に抑圧された同性愛の地位を再強化することにつながり得ないからだ。「クローゼット」の除去は、ホモセクシュアリティをマイノリティの問題へと特化してしまう。「クローゼット」の中身を「ホモセクシュアル」と名指すこと(もしくは否定すること)は、それ自体異性愛の構造を一義的なもの(異性愛のみが正統)として追認することになってしまう。本質主義という迂回したカムアウトは、ホモフォビアを克服できない。
 しかし、「クローゼット」の問題系が複雑なのは、「クローゼット」の中身は決して暴露されない以上、そこに「ホモセクシュアル」なものが眠っている、という保証はない、という点にある。それどころか、「クローゼット」という秘密を隠す容器そのものが異性愛にとってスキャンダラスなものと化す。「クローゼット」の中身ではなくその存在自体(「隠すこと自体がなにか隠していることを暴き立ててしまう」 59)が、ホモソーシャルな関係とホモセクシュアルな関係との不可分な蜜月を暗に示し、ホモソーシャルな関係を前提としている異性愛の成就にとって躓きの石たりうる。「クローゼット」は隠されていると同時に暴かれている。この観点において、「クローゼット」の中に実体としてのホモセクシュアル性が存在するかどうかは問題にならない。なぜなら、「クローゼット」という「公然の秘密」は、その存在自体がヘテロセクシュアル異性愛の構造にとって自明であると同時に得体の知れない攪乱者として働くからである。ここに至り、まさに「代補」のレトリックに順ずる形で、異性愛の「付け足し」に過ぎないはずの同性愛は、空虚な秘密となることで異性愛にとって正当化することのできないものとなる。構築主義的観点において、「クィア」は異性愛に対する対抗言説ではなく、異性愛/同性愛の二項対立構造に対する対抗言説となる。しかしそれでも問題は残る。なぜなら「秘密」がホモセクシュアルとして特定されることなく普遍化されると、ホモセクシュアルの問題を消去されてしまうからだ。結局、ホモセクシュアルが存在しないということは、ホモフォビアを追認することになる。このように、「クィア」批評は、ゲイ・レズビアン批評の性器的同性愛とはつかず離れずの位置をとりながら、「ホモフォビアダブルバインド」について考察していくことになる。
 著者はこの「ホモフォビアダブルバインド」を批評の磁場において超克しようとしているように思われる。文学世界におけるホモソーシャルな関係の考察は、ホモセクシュアルを実体的なものとして名指すことと同義である。しかし、批評の中でそれを実体的なものとして名指さない行為は、ホモソーシャルな連鎖の中に「クィア」な何かを普遍化することに繋がる。文学を「クィア」に読む行為、その只中に「ホモフォアビアのダブルバインド」は埋め込まれている。しかし、それはただいたずらに再生産されるわけではない。ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ理論を援用する形で、著者は文学読解、文学批評、あるいは文学批評の読解の反復の中に根源的なずれを要請する。そのずれこそが、本書の用いる「クィア理論」の理解であり、と同時に本書の「クィアネス」そのものである。
 本書は「クィア理論」の系譜をメタ批評的に読む第1章を礎に文学テクストを批評する第2章から第5章までの実践篇と、ラカンジジェク理論とバトラー理論のズレを扱った村山理論篇である第6・7章、そしてナルシシズムとS/Mとの関係を精神分析的に読む書き下ろし第8章から成る。しかし、理論と実践とを単純に分割することはできない。理論は実践に、実践は理論に少なからず依存しているからだ。ちょうど、著者が「クィア理論」の実践の中で感じるセクシュアリティのズレと、その著書を読み進める我々が感じる「クィア」な感覚とが混線していくように。「クィア」批評は傍観者を許さない。その中では全てが「クィア」な主体へと変わるのだ。私自身の読みが、例え誤読であったとしても。