ポストコロニアリズム

 秋の天皇賞。ほぼ一世紀ぶりに(明治天皇以来)競馬を天皇が観戦した。結果はヘブンリーロマンスというノーマークの牝馬が突き抜け、2着を現役最強馬ゼンノロブロイが死守した。牝馬天皇賞優勝は、エアグルーヴ以来8年ぶり。しかし、これは予想外のスローペースの中、内で我慢しながら最短コースを通ったヘブンリーの鞍上松永の好騎乗によるもの。一番強い競馬をしたのは、馬群を割って伸びてきたロブロイ。力は示した。
Rosa Parks死去のニュースが波紋を広げている。一人の黒人女性がバスボイコットをしたことが、公民権運動の大きなうねりを生み、ライス国務長官のような黒人女性が政府の要職に就くことができる世の中の実現に至った。もちろん、まだ問題は山積する。しかし、問題を問題だと勇気を持って指摘したParksのような女性がいなかったら、問題は問題として認知されないままだったかもしれない。Parksのような小さな声も、歴史を変えうる大きな力になることを忘れてはならない。
 

ポストコロニアリズム (〈1冊でわかる〉シリーズ)

ポストコロニアリズム (〈1冊でわかる〉シリーズ)

「一冊でわかる」シリーズの『ポストコロニアリズム』(Robert Young:本橋哲也訳)を読んだ。これ、実は今まで読んだ本の中で最高レベルに素晴らしい本かもしれない。著者Youngは、「ポストコロニアリズム」という曖昧模糊とした形而上学的世界ではなく、現在も続行する世界情勢の中に我々を放り込む。極めて現実感に満ちた好書である。
 ここに理論的な晦渋さは微塵もない。ともすれば「ポストコロニアリズム」の世界は、「ハイブリッド」、「ミミクリー」、「ホームレスネス」といった文字通り(デッド・)メタファーの温床で、現実離れした知的特権階級の庵にとして受け止められがちだ。しかし本書に無意味な記号的羅列はない。あるのは世界各地で展開する植民地主義と脱植民地化の果てしない闘争の羅列である。Youngは、この本を読むことができるという特権的な地位にある我々を、本を読むことができない人々の立場へと引き付ける。そしてYoungは絶え間なく我々を「あなた」と二人称で呼びかけ、決して「ポストコロニアリズム」の問題を他者だけの問題とすることはない。それは自分の問題なのだ。一部の特権的知識人が『知の欺瞞』で批判されているようなわけのわからない用語を生産し、再生産するだけの超人的行為ではなく、ごく当たり前に我々が日々直面するような類の様々な異なる文化を翻訳する一般人の営為、それが「ポストコロニアリズム」の問題圏である。
 本書を貫く概念と呼べる概念は、指弾を恐れず断言すれば、「翻訳」、そして明確に記されてはいないが「ポストコロニアリズム」の重要概念「学び捨てる」(unlearn)の二種類しかない。
 我々は長い人生の中で様々な人に出会う。進学、就職、転職、結婚、葬式。きっかけはなんでもいい。そこで出会う人は一見物凄くとっつきにくそうだったり、逆に物凄く社交的だったり、仲良くできそうでなんとなく距離があったり、と実に様々な様相・局面で現れる。その上、人間誰しも先入観がある。だから、初めて会った人は必ずその先入観によって処理される。ごく単純化していえば、これが「コロニアリズム」である。先入観は距離を作る。相互理解は決して生まれない。社交的な人との関係でも、敵対的な人との関係でも、先入観が入っている限り「翻訳」は起こらない。お互いに一方的なイメージを相手に投影しているだけである。相手のことをわかっているつもり。そしてしばしばその不幸な関係は支配関係に変わる。人間はどれだけ文明化してもやはり動物である。だから、どうしても集団の中で序列意識を持とうとする。かならずクラスに一人は番長とはいわずとも、リーダー的な存在はいるだろう。そして社会に出れば、その序列は「収入」や「地位」によって始めから決まっている。その序列に安住すると人は確かに生きやすい。特に序列の上位に属する人々にとっては。だから、相手のことを自分の言葉で置き換え、かつその置き換えた言葉が必ずしも相手とイコールではないことを認識するめんどくさい「翻訳」は、序列が強力であればあるほど忘れ去られていく。
 しかし、長い人生、よくわからない他者は、往々にしてかけがえのない友人、恋人、先生、恩人に変わっていく。それは「翻訳」が「起こった」(「する」ではない)証拠だ。相手のことを自分のこととして捉え、かつ自分の姿を相手に開く。決して完全な理解はないかもしれない。しかし、とことん相手の考えを自分の言葉の中に、しかし今までの自分の言葉ではない何かを抱えた言葉として心の中に刻みつづける「翻訳」によって結ばれた関係は、序列に縛られることはない。違いは残る。しかし、どちらが上か、下か、という序列意識などここでは関係ないからだ。
 序列を消去する「翻訳」が起こるのは、実に逆説的なことだが、序列を忘れることによって可能となる。それが「学び捨てる」ということだ。相手のことを本当の意味で知るためには、既成概念も、それまでに「翻訳」が起こった友人との関係で得た事柄も「学び捨て」なければならない。相手の言葉を理解しようとするためには、自分が理解の基盤としてきた語彙の根本的変換が必要だ。先入観を、そしてその先入観を支えている序列を、捨て去ること。「翻訳」は「捨てることを学ぶ」、あるいは「学んだことを捨てる」ことによって初めて「起こる」。
 こうしたことは日常的な人間関係の中では、意識もされずにごく当たり前に起こっている。何も文字通りの「翻訳」に携わる翻訳者だけが経験しているのではない。「ポストコロニアリズム」的な問題は、実は私たちの日常では意識する意味も大してないごくありふれた些事にすぎない。しかし、それが問題になる場所が、私たちの日常以外の場所には存在する。イスラエルに支配されるパレスチナ、今もカーストが支配するインド、今も内戦の絶えないアフリカやカリブ海、そしてアイヌ琉球民族を虐げ単一民族を標榜する私たちの「非日常」日本。ポストコロニアリズム批評は、そうした「非日常」の世界が我々の「日常」へと「翻訳」されるために存在する。「翻訳」の生まれそうにない場所に「翻訳」を起こす。そして、「翻訳」が起こる場にいるという私たちの意識されない特権を意識し、それを「学び捨てる」。実は、ポストコロニアリズム批評の用語上の混乱・増殖は、知的恍惚を得るための「マスターベーション」などではなく、「翻訳」の困難さを行為遂行的に物語っているだけなのだ。確かに私たちと彼らの間には超えがたい壁が存在する。記号の羅列に見えてもしょうがない。でも、それだけコロニアリズムが残した文化翻訳の壁は天をつくほどに高いのだ。Spivakの本が難しいのはしょうがない。しかし、理解できなくとも恥じることはない。予め誤読は許されている。ただ、それは我々の知らない「非日常」という現実の場所を意識して初めて許される誤読である。いくら理解していると胸を張る知識人であろうと、現実の場を無視する者は「許されざる誤読」の危険に晒されている。現実の場を意識し、誤読を引き受ける者は、「ポストコロニアリズム」の「翻訳」が起きるかもしれない。そのうち私にも、と願いつつ、やっぱりBahbaだけは勘弁、と一部の「翻訳」を拒む日々が今日も繰り返される。

PS:新歴史主義とポストコロニアリズムの折衷的批評を、個人的には支持する。現実の場、そして今も続行するコロニアリズムの問題を考えることは、当然過去と現在の対話を必要とするからだ(権力の考え方については検討が必要だろう)。そして、こうした視点は、西洋にとっての他者ではなく、西洋/非西洋という枠組みそのものを問題とする。だから、WASPのような主流文化を研究することは、ポストコロニアリズムの本流に属する。植民地だけではなく、宗主国そのものも問題になるからだ。テクストから植民地が消去されている場合、Said的な「対位法的読解」が必要となる。関係を作ることを拒むようなコンサバなWASPのテクストにも外部が存在することを示し、その内部と外部の関係を脱構築し、関係を作り直すこと、それもまたポストコロニアリズム批評のやるべきことだ。Faulknerの 「ヨクナパトゥーファ」、Mansfieldの「人形の家」、CarverのMinimalism。こうした閉じた世界は、往々にしてその外部を消去することで成り立っている。そして、閉じた世界は往々にして時間の流れや歴史を無視する。だから、そこに歴史という外部を導入することも重要だろう。逆に空間的な広がりを前提とした世界は、広がりの中に全てを内包しているという欺瞞に満ちたものかもしれない。その広がりが実は狭いということを示してあげることもポストコロニアリズムの批評にとって重要なことだろう。そして、そうしたことを全部ひっくるめて提示するテクストこそが、批評と並んで重要なポストコロニアルな文学テクストということになるだろう。