新歴史主義考その3

 さて、新歴史主義についてつまらない考察を続けてきたが、今度は新歴史主義の根幹に関わるフーコーの権力論について考えてみたい。
 『性の歴史』等でのフーコーの主張は、大まかにいって権力(power)は上からくるのではなく(絶対王政モデルのように)、水平方向に偏在する、といったものだった(上部構造/下部構造モデルのような上から来る権力と分けて、「力」と言う人もいるが、フーコーは横の関係の中に権力があるということを強調しただけで、特に用語上の問題はないと思う)。権力が水平方向に伸びていると考える際に浮上するのが、権力の転覆やそれに対する抵抗の可能性である。俗流マルクス主義の手法に従えば、絶対王政的権力はまず資本力のあるブルジョワ階級が革命を起こすことで転覆され(社会主義革命)、その後労働者階級とブルジョワ階級の差異を解消する真に平等な社会を求める革命が起こる(共産主義革命)。こうしたマルクスレーニン主義の理論では、二度の革命を経て権力は駆逐され、民衆は解放されるわけだが、共産主義革命が歴史上起こらなかったのは、その革命理論それ自体が一つの絶対的な権力として機能し、それ自体自己目的化することで社会主義の独裁体制が維持されていたからである。フーコーはこうした二元論的な権力理論を退ける。革命も転覆も起こらない。これは何を意味するのか。イデオロギーヘゲモニーは分かちがたく結束しているため、権力の中心と見えるものを転覆・破壊したところで無駄だ、ということになろうか。なぜなら、中心はあくまで中心として「機能」しているだけであって、実体ではないからだ。小泉純一郎が例えばものすごい性差別主義者だったとして、女子便所をなくすという法律を作ろうとしているとする。そこで女性の権利を擁護する土井たかこが猛然と食いかかって、クーデターを起こしたとする。性差別的な国家元首はいなくなり、性差別はなくなる、と考えるのは、あまりに無邪気な議論だろう。そう、性差別は権力の中心として機能する性差別者を排斥しただけではなくならない。確かに政治的な転覆はここで起きている。ただし、中心の機能が変わるだけだ。小泉もまた権力のネットワークの一部に過ぎない。ここでの小泉は、ジェンダーの権力関係の間にいる。しかし、上にいるわけではない。ただ、横の関係の中心に見えるだけだ。ここでは土井たかこも性差別的な言説のネットワークの中にいる。土井がいかにイデオロジカルな見地から性差別を一掃しようと図っても、性差別はヘゲモニーの中に潜在し続ける。力のせめぎあいの構図が見た目変わっただけだ。小泉が土井にとって代わられるという見た目の派手さに何の意味もない。戦いは日常に潜んでいるのだ。
 これがアルチュセールと決定的に違うフーコーの権力の考え方だ。アルチュセールは確かに上部/下部構造理論を否定し、構造論的因果律モデル(重層決定論)を提示したが、「呼びかけ」という上からやってくる権力を否定したわけではなかった。権力は上から来るものではない。それは言説の中に、言説の中で主体として生きる我々の体に刷り込まれている。こうした我々の日常に関わるレベルで権力について思考することをフーコーは「生―政治」(bio-politics:フーコーの場合「性」の方がいいかも)と呼んだ。だから、ここでは革命は起きない。抑圧者もいない。姿の見えない敵と我々は対峙しているのだ。
 フーコーは「生―政治」を偏在する権力の布置連関を見定めることによって実践しようとする。同様に新歴史主義者も日常の生活に忍び込んだ権力のあり方を見定めようとする。どれだけ文学世界の中に帝国主義の影が忍び込んでいるか。どれだけ我々の生活はポストモダニズムの規範に支配されているか。そうした「生―政治」的状況の中で画一化されている我々は、その規範をどのように変えていけるのか。新歴史主義の実践は、分かりやすい「中心に見えるもの」が権力のネットワークの一部に過ぎず、権力が見えないところにたくさん潜在していることを示す。それゆえに、新歴史主義批評は一種の暴露批評ともいえる。もちろん、これは日常を無為に過ごす私のような者に啓蒙の瞬間をもたらすのは間違いない。しかし、何でもかんでも帝国主義植民地主義、性差別主義、父権主義に還元されているような気がするのは私だけだろうか。私には帝国主義の時代に起こる出来事やそこで生産されるテクストが、ある程度帝国主義的な権力の布置連関の中に組み込まれているのは当然だと思う。もちろん、これまで論じられてこなかったような権力間の争いが焦点化される点については大いに賞賛すべきだが、帝国主義という大きな物語の中に全てを含みこむのは少々無理があるように思う。帝国主義という大きな物語自体も様々な要因によって様々な形で構築されており、その構造の分節化こそが急務であるように思われるからだ(もちろん、良質の新歴史主義批評はこの点を踏まえている)。大きな物語もまた矛盾によって支えられている。
 さらに、権力がネットワークとして存在しているのであれば、新歴史主義批評は学際的研究に開かれていることになる。しかし、「学際的」という言葉が学問間の相互交渉を指すのであれば、新歴史主義批評の多くは「学際的」ではない。なぜなら、新歴史主義の多くは、歴史学的成果をそのまま適用する批評が大部分を占めるからだ。つまり、それらがどんなに一次資料を使っていようと、その読み方はことごとくすでに最先端の歴史学研究で明らかにされている成果に準じているため「学際的」レベルで「新しい」研究とはなりえない。それはあくまでも「歴史を軽視してきた文学研究」にとってのみの新しさである。新歴史主義的研究は一部の超人を除いて、「学際的」ではない。文学とその外部は非対称な関係にある。文学がその外部を利用することはあっても、その逆はほとんど起こり得ない。
 そして、フーコーの権力論が果たしてどれほど有効なのか、という問題も残る。フーコーのモデルは日常へと向いているが、果たしてそれは誰にとっての日常なのか。Spivakは「サバルタンは語れるのか?」において西洋/非西洋の枠組みがフーコーの論には欠けていることを指摘した。それはフーコーの権力モデルについてもいえるのではないか?権力は上からはやってこない。果てしなくネットワークとして存在している。こうした見方はポストコロニアリズムの議論においてはあまり現実味がない。なぜなら、ポストコロニアリズムが対象とする世界では、今でも権力は上からやってくるからだ。究極的にはフーコーの方が正しいだろう。宗主国を追い払っても、独裁政権が同じような権力を振るい、内戦は絶え間なく続く。中心に見えるものが絶え間なく姿形を変えながら、同じような機能を果たす。しかし、権力がぶつかる瞬間、どんなにフーコーが否定しようとも、その関係は上下関係になる。支配者/被支配者という関係は絶え間なく反復される。サバルタン、あるいは被植民者にとって、権力は必ず上からやってくる。それが彼らの日常だからだ。フーコーの権力論は、理論的には正確だ。しかし、瞬間的に支配者として現れるものの輪郭をぼかしてしまう。戦いは具体的な上下関係の繰り返しの中にある。フーコーの権力論では、こうした権力は抽象化され、ポストモダニズム植民地主義といった無味乾燥な概念へと行き着く。そこに抵抗の余地はない。フーコーの抽象的な日常が際限なく布置連関を広げる権力のネットワークを前提とする一方で、具体的な日常は常に上下関係に規定された権力と共にある。転覆や革命が全てを終わらすわけではない。その点ではフーコーのモデルは正しい。しかし、転覆や革命の連続が歴史を作る。本当の日常は、そうした具体性の中にしかない。