『マルチチュード』その1

いよいよ12月突入。光陰矢の如し、今年も瞬く間に終わっていった。思えば3月、「あんた、来年どうすんの?」という現嫁の飛ばした檄に始まり、瞬く間に結婚への段取りが整っていった。6月、双方の両親に挨拶に行く。「お父さん、娘さんを下さい」的な修羅場は微塵もなく、パジャマまで用意されていた次第。すべてが予定調和。さらには8月、先輩の結婚式の二次会で「今入籍すれば漏れなく10万円バック」という年末商戦のような御託宣を頂き、あっさり11月中の入籍を決定。「結婚は勢いだ」とはいうが、本当にそうだ。「で、博論は?」と聞かれると・・・。博論も勢い、なのだろう(書き終わった方々を思い浮かべる限り)。
  

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

 『マルチチュード』。まだ途中だけど、どうも腑に落ちない。現況分析としてはこれでいいのだろうが。
<帝国>の時代には、戦争と平和の境界が極めて不明確になって戦争が常態化する。ただし、戦争の際に必要とされる敵は、具体性を欠き、どこにでもいる偏在する「仮想敵」となる。したがって、ブッシュ・ドクトリンが典型的に示しているように、世界の秩序形成は明確な敵に対する受動的なレスポンス= “defense” から、不明瞭な敵に備えると同時にそれを能動的に探し出す、あるいは作り出す “security” へと委ねられる。ここで重要なのは、securityがdefenseと違って国境の内/外という区別を前提としないということだ。<帝国>時代の戦争は、国家間の戦争ではない。国家の内外問わず普遍的に構築される<帝国>という新しい主権形態は、国境を取り払い、偏在する敵の<分散的ネットワーク>に備えるために、戦争の概念を<帝国>的に変えるのである。
 Negri=Hardtは、<帝国>の普遍性そのものに弱点がある、という。<帝国>の特性は、あらゆる二項対立を解体し、すべてを<グレーゾーン>に変えていくところにあるが、そのグレーゾーンそのものが<帝国>が作り出す敵と接触する場所であるがゆえに、<帝国>を脅かす場所たりうる。換言すれば、<帝国>は自分が作り出す曖昧な世界のために危険にさらされることになってしまうのである。
 だから<帝国>は、その形態を偏在する敵に合わせて曖昧な中心無きネットワークへと変える必要がある。『踊る大捜査線The Movie2』を思い浮かべればいい。あのリストラ集団が<帝国>の作り出した<分散的ネットワーク>である。そして、リストラ集団に対抗するために、警察がとる手段は、やはり<分散的ネットワーク>になることだった。完全なトップダウン式の沖田管理官から所轄に自由にやらせる室井管理官へのシフト。<帝国>の辿る道はこういう風に中心を消去する方向に延びている。ただし、<帝国>は<分散的ネットワーク>へと自らの姿を変えることによって、もはや<帝国>の対峙する敵と見分けがつかないというジレンマに陥る。青島のような自由闊達な人間は、<分散的ネットワーク>の理想を体現した<帝国>側の人間だろうが、実のところ、敵側のリストラ集団の自由さとなんら異なるものではない(最後に青島が室井の有能さを称えるとしても)。<帝国>はその成立過程において、あらかじめ矛盾を孕んでいるのである。(『踊る』は強引に<分散的ネットワーク>を再びトップダウン型の組織に回収しようとしているが、果たしてそれは成功しているのか。なんか、リストラ集団への対応はaberrationで、統一のとれた組織の姿が本当なのですよ、といわんばかり。きっちり終わらないと大衆映画にはならないけど。とはいえ、あの話は監視カメラの問題をそのままにして終わっている点で、もしかしたら『蝿の王』的な皮肉を込めている、とも考えられる。)
 というのは、<帝国>の側から見た分析だが、果たして<帝国>に対峙する<マルチチュード>なる集合体が、有効な抵抗をすることができるのか。どうも<帝国>が裏返っただけ、になるような気がするのだが。