さぼりたおしました
なんだか外は寒くて、いつのまにか雪景色。今年もあっという間に終わっていく。なんか学校行くのが非常にめんどくさくて、更新というか書くこと自体サボり倒してしまう。まあ、自分の場合、読んだり書いたりしすぎるとオーバーフロウになっちゃって、まとまるものもまとまらなくなるので結構サボるのも大事だったりするので。というわけで、それでもいくらか書いたものがあるので、適当にのせてみます。いつ書いたかのかは全く不明。
新幹線にて帰還。しかし、なぜかいつも新幹線に乗るとビールを飲んでしまう。自由席のくせに気分はグリーン車。貧乏人のささやかな幸せなのだ。ヒルズ族にはわからないだろ。
帰宅するなり配達物の山。一つずつ片付ける。用事を済ませ、大学へ。今日は学内の研究会が開催される日なのだ。いつも4時間ぶっ通しであるので、大体遅れていくことにしている(というと怒られるか?)。一つ目はフォークナーの人種/エスニシティに関する発表だったようだ(Lくん、スマン)。
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私は女性表象の問題(発表では女性はほとんど扱われていないし、戦争映画ではたいてい女性が後景化されるので)について質問したが、女性は主として傷ついた男性を癒すhealerとして描かれている、と返答された。その答えに即して考えるなら、やはり戦争映画の女性は、戦闘シーンに登場するか否かに拘わらず、戦闘員=男性/看護婦=女性のような戦時中の役割分担そのままに描かれるのが普通だということになるのだろうか(The Sun also Risesのように)。また、MichaelがNickの妻Lindaに横恋慕している状況、そしてサイゴン陥落寸前のベトナムに残され、記憶と両足を失ったままひたすらロシアン・ルーレットに興じる囚われのNickをマッチョなMichaelが救出に行く(結局NickとMichaelはロシアン・ルーレットで対決し、Nickは死ぬ)というクライマックスを総合的に勘案すると、クィアな読みの可能性も否定できない。大体が戦争という極限状況自体、ホモソーシャルな連帯関係によっていっそう盛り上がるものであるから、クィアな読みを必然的に呼び込むものであるだろう。
ついでにいうなら、“one shot”とロシアン・ルーレットは連続的な関係にあると思う。“one shot”は二発撃たないところが味噌だ(Michaelが “two shot”をこっぴどくけなしている点に注意)。ロシアン・ルーレットは、 通常弾を一発込めて撃つ。いつかやってくる “one shot” のために、ロシアン・ルーレットは繰り返される。両者は対立しているというより、換喩的関係にある。Michaelはベトコンに捕虜にされ、ロシアン・ルーレットを強要されたとき、弾を三発込めさせ、脱出の機会を窺う。結果、残り弾をうまく使って脱出できるわけだが、ここでMichaelは ロシアン・ルーレットのルール(弾を一発込める)と“one shot” の美学に同時に逆らってしまうことになる(Michaelはロシアン・ルーレットの煉獄から抜けるために、“one shot”の禁を破る。だから、Michaelは帰郷して猟に出たときに、鹿を一発で仕留めることができなくなってしまう)。この点において、“one shot” とロシアン・ルーレットが単純に対立しているわけではないことは明らかだ(発表ではロシアン・ルーレットは偶発的な生と死を象徴している、ということになっていて、いまいち “one shot” との関連が明らかにされていなかった)。
しかしその一方で、“one shot”とロシアン・ルーレットは対立しているともいえる。これはコンテクストの問題になってくるのだが、“one shot”はアメリカ開拓のカウボーイ的伝統に根ざしており、ロシアン・ルーレットはソ連=共産主義的な文脈にある。実際に映画を見ていないので、前者についてはより詳細に分析する必要があるだろうが、最後は “God Bless America” で終わるなど、多分にイデオロギー的色彩が強い映画なので、おそらく立証できるのではないか。
とすると、“one shot”とロシアン・ルーレットは行為の観点では連続的、そしてコンテクストの上では対比的という矛盾した図式が成り立つ。そしてこれは、ベトナム戦争という東西冷戦(イデオロギー闘争)がもっともホットだったモメントにどっちつかずの立場で揺れ動くロシア系アメリカ人(エスニシティの揺動)の立場を表象するものといえるのではないか。The Deer Hunterが公開された1978年当時、未だ冷戦は続いていた。依然として、アフリカなどの第三世界で冷戦はホットに存在していた。The Deer Hunterは、ベトコンという第三世界を顔のない他者として非人間的に扱う一方で、第一世界と第二世界との間に屹立する壁を取り壊そうとしていたのではないか。第三世界の立場を考慮することができないという時代の限界、そして善と悪の二項対立を前景化するハリウッド映画という形式の限界を看過することはできないが、それでもロシア系アメリカ人という設定は、イデオロギーとエスニシティの相克という観点からいって過少評価すべきではないだろう。
見てもない映画について、適当なことをいってしまった。所詮は唯の連想なのでお許しを。
荷造りに熱中して、なかなか更新できず(といっても荷造りもほとんど進んでいない)。何日分かを振りかえる。そういえば兼業主夫話は立ち消えに。距離が距離だけに納得。まあ、どっちでもいいんだけどね。
フィギュア・スケートをテレビ観戦。大して滑れない者からみると、この世界は完全に異次元の世界。優勝者が男女ともに号泣していたところに初々しさを感じた。考えてみれば、このひとたちは20かそこらの若者。浅田真央なんて15とか。高校球児が年下になったときも感じたが、今やスポーツ選手の大部分が年下になっていることに改めて隔世の感。
土壇場のJリーグを観戦。土壇場でG大阪が優勝。C大阪も惜しかった。1シーズン制でやると、何度も調子の上下がやってきて、時にこんなドラマチックなことが起きる。アラウージョ退団は残念だが、今後も過激な攻撃サッカーを貫いてほしい。
ボルトン―アーセナル戦を地上波観戦。いくらJリーグが進化したといっても、このスピードを見せられるとまだまだだな、などと自分はできもしないのに偉そうな大言を吐く。序盤、アーセナルのペースになりそうな瞬間もあったが、ほとんどボルトンのペース。ボルトンは完全に中盤を省略。チームを攻めと守りの2つに割って、相手のディフェンスラインの隙を突く作戦。アーセナルはポゼッションサッカーをしたかったのだろうが、最終ラインから中盤につなぐ過程でボルトンの前線プレスにつかまり、まったくサッカーにならない。結局、アーセナルも諦めて、前線に放り込むサッカーに転換するが、ボルトンのディフェンスはすこぶる安定していて、付け入る隙はない。となれば頼みはアンリ。この人だけは1人で全てを変える力を持っているけど、今日は運もない。バーを数度叩く。結局、ミスにつけ込んだボルトンが2ゴール。突破力が売りのディウフも今日はサイドでキープする時間稼ぎ担当。このサッカーなら中田は全然いらないのだろう(ベンチ入りせず)。中堅クラスのチームがアーセナルのようなトップクラスのチームに勝つには、こういうサッカーしかない。
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Unmeltable Ethnics: Politics and Culture in American Life
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NHKのETVライブラリーで少年院の密着モノをみる。犯罪犯したり、非行に走ったりする子どもって、結構対人関係がうまくいかない子が多い。自分のことを知られたくないとか、人のことを信用できないとか。一番の問題は言葉だと感じた。自分の感情や人の人間性がうまく言葉にならない。まあ土台、完全には言葉にならないのだけど、それでも言葉にすることである程度の社会性を人間は得てるわけで、伝わらなくてもコミュニケートすることに意味はある。彼らはそれを半ばあきらめている。
暴走族のトップだった少年は、自分が逮捕されるときに3桁はいた構成員が5人になったときに、その連帯感がまがい物だったことに気付く。16歳で彼女を妊娠させ、親に発覚することを恐れるあまり、生まれたてのわが子を殺し、山林に埋めた少年は、「いい子」の仮面をはずすことを頑なに拒否する。表面的なところで彼らは人間関係を捉えている。失敗したり、怒られたり、挫折したりするのが怖い。解決しようとしない。見ようとしない。必要な言葉を欠いている。
彼らにとって、少年院の教官は初めて信頼関係を結べる大人なのだろう。しかし、少年院を出ると、教官との関係は法的に断たれる。社会に出ると、少年院の中と同じように信頼関係を結ぶことは難しい。前科者というレッテルも障害だが、社会では少年院の教官のように向こうから信頼関係を結ぼうとしてくれる人はそんなに多くはない。結局、10人中2人は少年院に帰ってくる。少年院はあくまで言葉を学ぶリハビリにすぎない。関係を結ぶために必要な言葉は、社会にいる人と同じ数だけ存在するからだ。
少年犯罪を語るときに「心の闇」というのがキーワードになっている。これは非常に便利なマスターワードだと思う。知識人と名乗る人や著名なキャスターが簡単にこの言葉を使って、「やっぱり分かりませんね」という分かりやすさで事件を片付ける。実はこれ、少年院に入る子供達と同じ発想なのでは。言葉を尽くすことをしないがために行動に走る少年とそれを「心の闇」という空虚なシニフィアンで切って捨てるメディア。「ペンは剣より強し」の時代ではもうないのかもしれない。