ぐだぐだな一日

 一日パジャマ姿で過ごす。嫁が今晩飲み会なので、夕飯を準備する必要もなし。適当な時間に適当なものを食す。だらだら本を読み、だらだらネットサーフィン。美川憲一がうらやましい。おっ、佐藤が初代表か。久保とのコンビは面白そうだ。日本代表の場合、FWの旬を見逃してはならない(玉田を見よ)。W杯の時期に誰の調子がいいのか。悩ましい。
 トラカレにリンクされていた上野千鶴子の講演、結構面白かった。ジェンダーって何?という人は、必見。
 

文学理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

文学理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 Jonathan Culler『文学理論』をくつろぎながら読む。特に新しい発見はなかったが、頭の体操にはなった。とはいえ、こんなに簡単に上手に理論を説明する自信は自分には無い。これは研究者以前に、教師としての力量がなせる技なのだろう。流派ごと(脱構築精神分析、新歴史主義)に分類するのではなく、問題設定ごと(レトリック、行為遂行性、アイデンティティ)に整理するのも◎。流派ごとにまとめると、どうしても「私、ポストコロニアル研究やってます」みたいな安易な安定志向人間を大量生産することになりかねない。富山太佳夫のあとがき「これから、どうする」(いつもの名調子で)からの引用。

実際に文学作品を読んでいるとすぐに分かることであるが、作品はさまざまの部分とさまざまのレベルから出来ているのが普通であって、決してひとつの方法論で読み解けるものではない。[中略]いずれかひとつに依拠して作品の全体を読みこなせるものではないし、かりにそんなことをすれば、洞察よりも欠落点の多い、鋭いように見えて、その実単純な読みを生み出すだけで、またたくうちに紋切り型化してしまうだろう。[中略]文学の研究が基本的に雑学とならざるをえない所以である。(203-04)

なんて不幸な時代でしょう(笑)。「私、マーク・トウェインやってます」はいざ知らず、「私、新歴史主義者です」という立場表明も、なんにも保証してはくれない(後者は私の経験上一人しかいない)。深さよりも広さ。大変だけど、それが学問ってものなのでしょう。

関連して、ジョナサン・カラーは「文学理論」というカテゴリーを否定している(『文学理論』っていうタイトルではなかったか?)。理論は文学に限定できる代物ではないからだ。カラーは「理論」の要点を4つ挙げている。

  1. 理論は学際的である―もともとの学問分野(ディシプリン)を越えて影響力を持つ言説である。
  2. 理論は分析的で思弁的である―性、言語、エクリチュール、意味、主体と呼ばれるものには何が関与しているのかを解きほぐそうとする試みである。
  3. 理論は常識を、自然だと考えられている諸々の概念を、批判する。
  4. 理論はみずからに戻ってくる。考えることについて考え、文学やその他の言説の実践において、ものを理解するときに使うカテゴリーを考え直すものである。(22-23)

学際性、メタ言語、批判力、自己再帰性の4つをもって、カラーは理論の特徴を示そうとしている。言われてみてナットク。でも、学問はなんでもそうなんじゃないか、とも思う。こういうことを言う人が増えて、文学もようやく健全になった、ということか。
 それにしてもカラーはすごい。『ディコンストラクション』も凄かったし。頭がいい人って、こういう説明のできる人のことをいうのだろう。
ディコンストラクション (1) (〈特装版〉岩波現代選書)ディコンストラクション (2) (〈特装版〉岩波現代選書)