「デブ」の自己批判とAfrican-Native American

 嫁の同僚の先生一家と昼食、その他。「プリキュア」ではなく、「宇宙戦艦ヤマト」や「漂流教室」が大好きな小5と小3の姉妹。かなりおもしろい人生になりそうです。
 体重計に乗ったら70キロ。完全に「デブ」の領域。よって明日から早朝ランニングを開始することに。食いすぎにも注意。目標10キロマイナスの60キロ。
 
 

When Brer Rabbit Meets Coyote: African-Native American Literature

When Brer Rabbit Meets Coyote: African-Native American Literature

 ネイティヴアメリカンアフリカ系アメリカ人とを個別に扱うのではなく、それらの混血、文化的交渉、宗教的混交、そして何よりも文学的影響関係を手がかりに総合的に捉える視点を提示した画期的な研究書である。もちろん断片的にネイティヴアメリカンと黒人との関係を分析する研究書は以前にも存在したが、その交渉を1つの包括的な視点として提示し理論化を試みたのはこれが初めてである。公民権運動以後、対支配者の闘争が以前にも増して苛烈を極めていく中で、マイノリティ同士の関係も一層錯綜していった。しかし、black powerにはじまり、red powerやgray powerといったそれぞれの掲げる標語の類似性のみならず、時には明確な敵対関係としても表われるマイノリティ運動相互の連続と不連続が、実は伝統的なアメリカ社会の古くも新しいダイナミズムを60年代以降(再)提示していたのだ、というのは既に旧聞に属する。依然として、支配者対被抑圧者という図式が遍く流通しているが、被抑圧者同士の関係もしっかり捉えなおさなければ今後の展望は開けない。そうした意味でも本書を単発的な研究書として事実上黙殺するのではなく、新たなパラダイムとして流通させることが、島国根性や縄張り意識に囚われたマイノリティ研究に新たな一石を投じる契機となるかもしれない。
 異例の長さの序論は、ネイティヴアメリカン批評と黒人批評の批評的交点としてAfrican-Native Americanというカテゴリーを提示し、両者の歴史・文化・宗教・民話・文学等の交渉過程を概説し、1つの文化理論を構築しようと試みる。両者の反目や差異に目配りしながらも、共通性やハイブリッドな文化構築の過程を強調するこの序論の理論化が成功しているかどうかは脇に置いても、ネイティヴアメリカン―黒人―アフリカ系ネイティヴアメリカンという3つのカテゴリーが重なりながらも相対的自律性を保っていると論じるあたり、単純に雑種混淆性を称揚するだけの俗流ポストコロニアル批評とは明らかに一線を画する。
 以下、4部構成で各論が続く。第1部はフォークロア批評を扱い、Tar Baby神話やGatesのSignifyin(g)が文化交渉の可能性を秘めている点が指摘される。第2部ではcaptivity narrativeとslave narrativeの混淆性が示され、アメリカ伝統の自伝形式の奥深さを再認識させられる。第3部の各論文は、African-Native Americanの文化的トポスとしてのマルディグラルイジアナを触媒として扱い、音楽やダンスにおけるヘゲモニックな対白人抵抗運動を活写していく。そして最後の第4部では、現代のAfrican-Native Americanの主体性にスポットライトを当て、複数の作家の文化的roots/ routesを掘り下げていく。
 以上のように、多様な角度からAfrican-Native American文学・文化批評の可能性を提示する本書は、ポストコロニアル批評の亜種の域を未だ出てはいないものの、マイノリティ同士の関係に焦点を当てることで新たな次元を切り開こうと試みている。そして、その試みは成功した。交渉が行われている(た)のは立証済みである。これからは、その交渉をどのように位置づけ、どの問題系と接続するのか、という困難な問いと向き合わなければならない。多文化主義の問題系は、それが支配者の言説ではなく、被支配者の言説であるがゆえにどこまでも絡まり続ける。本書は問題に向き合うための糸口に過ぎない。