感情移入

 休観日。読書、その他。寝違えて首が回らない。ある意味、ずっと前から首は回らないのだが。晩飯は、鶏肉の照り焼き風野菜炒め。昨日の生春巻きは旨かった。

 
 中田英寿が現役引退を発表した。突然のことでびっくりしたが、サッカー選手として脂の乗り切った時期にすっぱり辞めるというのも彼の美学だろうからとやかく言うつもりはないし、もともとそんな権利もない。しかし、どうも共感できないのだ。中田は自分とほぼ同級生ということもあり、本来であれば親近感を抱く対象となるべき存在なのであろう。ところが、私はなぜかそんな感情を彼に対して抱いたことはなかった。もちろんそのパスセンスや視野の広さ、そして日本人選手の欠点としてまことしやかに囁かれていたフィジカルの面でも、卓抜した凄みを持っていた中田のサッカー選手としてのポテンシャルの高さには敬意を払う。しかし、私はどうもピッチを一歩外に出たときのあのセンスの良さ、「かっこよさ」についていけない。元来、粗雑な人間だからだろうか。美容師をイタリアへ呼んでカットしてもらったり、村上龍と上半身裸で記念撮影したりする中田の感性は、どうにも別世界のものとしか思えない。いや、別にサッカー選手は、プライベートを評価されるのではなく、そのプレーを評価されるのであるから、感情移入できるかどうかなんて全く別問題だということぐらい分かっている。
 私がサッカー生活からおさらばしたのは、18のとき。かれこれ10年前のことである。思い起こせば、中学生のときにJリーグが始まり、カズやラモスや井原といったドーハ世代が脚光を浴びた。しかし、これがどうもピンと来ない。私のアイドルは、ファン・バステンであり、フリットであり、ライカールトであり、マラドーナだった。WOWOWなんて入っていなかったけども、チームの友人の家が幸か不幸か電気屋で、本来は商品であるWOWOWを活用させていただいた。正直、「ドーハの悲劇」にもなんら悲劇的なものを感じなかった。むしろ、再三再四、足首の故障に悩まされ、結局引退していったファン・バステンの方がはるかに悲劇的だった。ヨーロッパのサッカーにかぶれた10代の小僧の背伸びというやつだろう。しかし、その後は確実にサッカーという饗宴の背後にある「悲劇」に憑かれていったような気がする。オランダに少し留学したぐらいで、海外帰りのプロレスラー並みに変身を遂げた小倉のプレーも凄いなあとは思ったけども、むしろ故障続きの悲劇的な晩年の方が私には強烈な印象に残っている。Jリーグでは、ストイコビッチに魅せられた。ストイコビッチの華麗なテクニックに感動し、彼のフィールドでの美しい立ち振る舞いのシナジーを備給する暗い前史に感情移入した。旧ユーゴの崩壊、内戦、空爆、そしてマルセイユで干されたストイコビッチ。背負っているものが暗ければ暗いほど、ピッチでの彼の舞は輝いて見えた。そういう意味では、最近は久保あたりに若干感情移入しているのかも知れない(余談ですが、馬だって、ディープインパクトよりもはるかにオグリの方が感情移入できます)。
 結局、自分はピッチの上で自己完結的に輝く選手に感情移入することはないのだろう。むしろ、影を培養土にして輝く選手、または影に侵食されていく選手こそ、私の感情移入の対象であるに違いない。であるなら、やっぱり中田はまだまだ明るすぎる。感情移入するには輝きすぎているような気がする。股関節痛や出場機会減に悩んだといっても、それでもスターの輝きを彼は放ち続けている。ボロボロになるまでやれ、などという権利は私にはないし、ボロボロになるまで彼がやったとしても、私が感情移入できるかどうか、そんなことは分からない。ボロボロになるまでやろうとしているダンディズム・カズに感情移入できるわけもないし。歯が白すぎるのだよ、新庄然り。感情移入させろ、と暴論を吹っかけるほど、私も人間が腐っているわけではない。しかし、やれやれ、爽やか過ぎるのだよ、中田君。ああ、体脂肪率一桁の彼がマラドーナみたいになったら、そりゃ諸手を挙げてどっぷり感情移入させてもらいます。お待ちしております。