ディアスポラ考

 読書、その他。真夏日のような日が続く。雪が深々と降り積もる真冬に生まれたせいか、夏には滅法弱い。なんだか精神的にへばり気味だが、少なくとも肉体的にはまだまだ元気なので、その点だけが救い。
 ついに中華鍋、正確には北京鍋を使ってマーボーナスを作る。フライパンよりも底が深いので使いやすい。手入れが面倒だが、それも油膜ができるまでの辛抱。毎日中華を作ってしまいそうなので、そこだけは注意。

 

越境・周縁・ディアスポラ―三つのアメリカ文学

越境・周縁・ディアスポラ―三つのアメリカ文学

 ユダヤ系、アフリカ系、アジア系の研究者が一同に会し、ディアスポラを合言葉に編んだ論集。海外では多様な経験を持つ諸集団をディアスポラという便利用語を用いて便宜的に一括して論じる論集が多数編まれているが、国内ではあまりにお目にかかれない。本邦初の試みだろうか。人種/民族別に章立てを作るのではなく、相互の交流や連帯を意識し、トピックごとにまとめてある。巻頭では、ユダヤ系・アフリカ系・アジア系の3集団におけるディアスポラ研究の進展具合が3人の論者によって概説として示され、論集全体に一定の指針を設けている。また巻末には、各集団が時系列に沿って並列された年表が付記されており、相互に刺激しあってこれからの研究を共に促進していこうという意気込みが伺える。
 (「ディアスポラ」をどう位置づけるか、というのはまだ決定的な答えのない難問であり、私のような一介の(小太りではあるが)小兵にどうこうできるもの話ではない。従って、以下はただの独り言である。)
 こうした1つの画期を成す論集にあえて留保を付けさせていただくなら、各論において、「ディアスポラ」を1つの実体的カテゴリーとして提示してしまっている記述が一部に見られた、という一点に尽きる。各論者同士、「ディアスポラ」の捉え方は様々であるとは思う。しかし、このように領域横断的な研究を試みる場合、そのような用語使用は、各集団内部、各集団間の差異を平板化して、一枚岩的に提示してしまう恐れがある。「ディアスポラ」を使うことで、その概念が最も批判的に対峙している国民国家グローバル化の均質化作用を思いがけず再演してしまうのであれば、「ディアスポラ」を用いる意義はない。「ディアスポラ」はパン・アフリカニズムやイスラエルなどと決して一致しない。それはある定点に対して多様な経験を対位法的にぶつけるための位置を、ある定点と共に一時的に創出する言葉に過ぎない。「ディアスポラ」は集団ではない。それは状況を切り取る言葉であり、コンテクストを一時的に顕在化させる戦略である。従って、「ディアスポラ」を「対抗文化」や「対抗言説」として記述する行為に対しても慎重でなければならない。むしろ、「ディアスポラ」は、アメリカニズムや人種主義といった「マスター・ナラティヴ」のみならず、さまざまなマイノリティの「対抗文化」や「対抗言説」をも取り崩し再形成していく力学と捉えた方がいい。私の稚拙な認識では、「ディアスポラ」は、言説の領域の限界を指し示す一種の現実界的な位相を占める(というのはラディカルに過ぎるかもしれないが)。というのも、「ディアスポラ」は、国家に排斥されながら国家にしがみつき、文化を改変しながらそれでも家族的に類似した文化を大事に携え、自らのrootsをそれが辿るroutesのなかで撒種するといった、矛盾に引き裂かれる状況を活写するのに適した概念だからである。この論集における「概説」で3人の論者が共通して援用しているJames Cliffordのディアスポラ論を、私はそのように読んできた。この論集を読む経験がそれとは別の本を読む経験とシンクロして、こんなことを考えてしまった。