そのまさか

 とある研究会その2。昨晩カマを掘られた友人の車に乗っけてもらい、いざ。随分早く着いたので、うどん屋で昼食。麺の大盛りがあったので、「大盛りで」というと、「ダブルですね」と返ってくる。変更する勇気もなく、そのまま。案の定食べ過ぎる。
 一本目。スタインベックのマイノリティ表象と環境正義について。人種的・階級的弱者は、環境的弱者にもなりやすい、という指摘には目からうろこ。環境に恵まれたユートピアスタインベックが提示しているのだが、ユートピアを実現可能だと考えているからなのか、それとも現実をディストピアとして引き立てるために持ち出しているのか、いまいち分からなかった。けれど、エコ的な読みの可能性をひしひしと感じ、論文でじっくり読みたいと思わせる内容だった。
 二本目。WestのMiss Lonelyheartsを(反)アポカリプス小説として読む試み。袋小路の現状を打開するために終末を示し、新しい未来を切り開くアポカリプスのレトリックだが、Westの場合、どうもこれを逆手にとってパロディにしているようだ、というのが論旨。つまり、アポカリプスはメシア的に行われるわけだが、この小説はメシア的な大きな力そのものを半ば笑い飛ばす。アポカリプスをアポカリプスの形式を使ってパロディにしているので、メタ・アポカリプス小説とでもいうべきか。ロレンスへの言及が重視されているように感じたので、1930年代におけるアポカリプスの効能などに注目すると、さらに面白くなると感じた。細部の読みももう少し聞いてみたかった。
 三本目。フォークナー、"That Evening Sun"の解釈上の争点を二者択一の回答で片付けるのではなく、そのまま残し、別の争点を挿入することで、2つの争点が同居する二重構造のテクストとして読む試み。時間の都合上、後半部分が端折られたのが残念だが、父親不在、あるいは機能不全の構造が、この二重構造に深く関与しているとの論旨だった。論証が実に緻密で手が込んでいた。クエンティンの語りにも二重性があるといわれているようなので、そこも含めて考察してみると面白いかもしれない、と素人ながら考えてみた。
 帰る予定だったが、なんとなく晩飯を。教師生活の苦労を肴に焼酎をぐびぐび。どうでもよくなって、結局友人宅になだれ込み、昨晩お世話になった先輩も巻き込んで飲み。そこでサプライズゲスト。挫折などしらないまっすぐの人生を歩み、教採に一発合格、あとは甲子園出場を目指すだけ、と思われてた後輩が、どうやら手違いで教職の単位を取り損ない、まだこちらに残っていた模様。さらに事務の手違いで通信過程まで受講する羽目に。相変わらず笑いに体を張っておられます。ひとしきり話して泥のように眠る。