9・11
だらだら。夜遅く別働隊隊長が帰宅。土産話を土産と共に頂く。楽しかったそうでなにより。
(New York Times Sep, 12, 2006 より)
9・11関連の記事や映像を一巡り。NYT紙やWashington Post紙(photoの32番目)が取り上げているように、光のイリュミネーションでグラウンド・ゼロにツイン・タワーを再現した模様。
NYT紙の記事では、死者よりも日常を生きる生者に焦点が当たっているように感じた。死者の名前を読み上げるときに、 "eloquent silences" もあった、という記者の言葉の選択は、喪の儀式が死者のためではなく生者のために行われていることを如実に示している。すでに9・11のときの衝撃音やビルの崩れる音、人々の上げる悲鳴といった事件の音声は、物言わぬ死者と共にグラウンド・ゼロ周辺の日常から消えた。しかし、3時間以上かけて読み上げられる数々の死者の名前の端々に、あるいはその余白に、事件の音声は非日常として生々しく蘇る。非日常の空間において死者の非日常に耳を傾ける、あるいは音を与えることで、生者は再び非日常とは切り離された、死者の声に苛まれることのない日常を謳歌することができる。喪の儀式は、逆説的ではあるけども、死と生の世界をほんの僅かな時間だけ接近させることで、日常に非日常が紛れ込まないよう聖別する。グラウンド・ゼロが穴であり、またvoidであることの意義は、9・11の事件がWTCを倒したという物質的なレベルにではなく、それがその象徴的な意味をも破壊したという痕跡であり、またそれゆえに別の記号をその穴の中に生産することを人々に促すことにこそある。遺族、または遺族ではなくともアメリカ国民であるものは、非日常の儀礼において、その穴の中に自由に各々の意味を補完する(星条旗などによって、アメリカ的なものにその意味の幅が限定されるのは問題だと思うが)。そういう意味で、私はグラウンド・ゼロが穴であり、空虚であり、沈黙であるからこそモニュメントとしての意味があると信じている。
そういうわけで、グラウンド・ゼロを滝が流れる公園のようにしようという案には賛同するが、わけのわからない趣味の悪い建物をその周りにボンボン建てるのはどうかと思う。あったはずのものがないから何が失われたのかを考えることができるわけで、空虚を過剰に埋めてしまうと、何が失われたのか全くわからなくなるんじゃないだろうか。→http://www.amny.com/news/local/am-towers0908,0,456376.story
関連して。面白かった記憶がある。何が面白かったか忘れてしまったのだけど。
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高いので原書の方がよろしいか。
Shadowed Ground: America's Landscapes of Violence and Tragedy
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