シニフィアンとシニフィエが一致するとかしないとか

 嫁の盆休み代休の最終日。ボールを蹴りたいというので付き合う。近くの公園で小一時間蹴る。途中「デコ(右)のここらへんが柔らかいよね」とか言われるが全くついていけない。おそらく私とは別の次元に行っちゃっているのでしょう。育ちすぎだよ。時折鋭いパスが足元にバシバシ来る。そのうち越えられるかも。オシムもきっと草葉の陰から…、ではなく草木の陰からこっそりチェックしているに違いない。その後、ファミレスでイタリア談義。フィレンツェとローマをピヴォットにして、中間も攻めてみようかと思案。ローマかフィオレンティーナの試合も見れたらいいなあ。夕飯はチキンライス。ミランvsアスコリの試合を後半から眺め、まどろむ。
 
 シニフィアン(signifier=記号表現)とシニフィエ(signified=記号内容)が一致するとかズレるとかいう表現を見聞きするたびに違和感を覚える。そういう考え方って、シニフィエシニフィアンの起源として想定してるんじゃないでしょうか。つまり、シニフィアンシニフィエに還元できると。そういう場合(があるとして)、意味作用(signification)は起きないんじゃないかと(テレパシー?)。あ、それから記号、ないしはそのシステムとしてのラングは、決して物質に還元されない(つまり具体性があるわけではない)、物質的なレベルと並行関係あるいは参照関係にあるシステムのことを指すわけで、シニフィエが「物質」でシニフィアンが「言葉」というわけでもないんじゃなかったかしらん。上記のような表現は、何かを表現する言葉が見当たらなかったり、人と言葉のイメージが違ったりするという事態を言いたいのでしょうか。でも、シニフィアンシニフィエが一致しない場合、まず記号として認識されないと思うんです。シニフィアンシニフィエがズレるのではなく、その総和としての記号(あるいは複数の記号から成るシステム)と物質的なレベルとがズレてるんじゃないですかねえ。そこらへんが、物事を自己完結的に考えるのではなく、関係や機能の面から見ようとした構造主義の肝のような気がするんですが。
 あー、でも「にしきのあきら」がいつまでも「スター」って呼ばれ続けているのを見聞きすると、シニフィアンシニフィエのほうがズレてるんじゃないかと思ってしまうかもしれませんねえ。でもあれは、「にしきのあきら」=「スター」というのに違和感があるんじゃなくて、「中年のいい年したおっさん」という物質的レベルと「スター・にしきの」という記号とが齟齬をきたしているんですよ、多分。余計難しくなったか。私なんかよりもずっと正確でわかりやすい参考→http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/kigou/kigou.html