carpetbagger

 変な時間に寝てしまったせいで、へんな時間に目が覚める。午前中は地味に仕事。嫁から電話で例の100冊運搬の依頼を受ける。早速図書館へ。すでにパッキングされた本をガラガラ(なんていう名前でしたっけ?)で研究室まで運び、ウチに帰る。で、ダラダラしているうちにウトウト。嫁の帰宅で目が覚める。すんめしぇーん。買い物してません。で、冷蔵庫を漁ってあるものでササッと。
 
 
 掘り出し物の中から『カバンひとつでアメリカン』(亀井俊介著 冬樹社 1982年)。タイトルからも覗えるように、スキップ感ありありのエッセー集。アメリカというと最近なにやら湿っぽい論文や言説が跳梁跋扈している観がある(私も多分その隅っこをこそこそ纏り縫いしている)が、著者の一連の著作にそんな高湿度な重さはない。本書も終始カラッと湿度0パーセントのピーカン日照りで貫かれている。様々な媒体に寄せたエッセーをまとめた本なので、文化論や文学論、性風俗論、旅行記、盗難体験記など雑多な論考が並ぶ(特に禁煙の風潮に対する一家言には首が千切れんばかりに頷いておいた)。あえてひとことでまとめるならば、「プロレス・ラヴ」(武藤、あるいは小島)ならぬ「アメリカ・ラヴ」だろうか。前半のやや砕けた語り口調に近い亀井節から後半の新聞に寄せたジャーナリスティックな文体に至るまで、時に温かく、また時に厳しくアメリカに接する態度に、筋の通った一本気の愛を感じる。また、私にとって本書は、一次資料とはいわないまでも、時代の雰囲気や当時の流行を垣間見せてくれる点で「1.5次資料」ぐらいの価値をも有している。『ショーグン』の与えたインパクト、家族復興に向けた波、西部劇のリヴァイヴァル、カーターと『キングコング』などなど、比較文化研究に根を張る著者から横断的に放射される当時の日米の熱気にいやがおうにもほだされる。だが、本当に私をほだすものは、おそらくそんな枝葉の部分ではない。著者の芸風の根幹を成すのは、自らを「カーペットバガー」(carpetbagger: 原義は南北戦争後に南部へと渡った狡賢い北部人の蔑称だが、身軽な旅行者の意味もある)と称するその軽快さ、そしてそれでいて実直にアメリカの伝統的な部分にしっかりコミットする重厚さである。この遊歩者は、カバンひとつでアメリカや日本を颯爽と歩き回るが、立ち止まるところではしっかりと立ち止まる。何も考えずに「旅」をするわけでは決してなく、ちゃんと「旅」を内省する余裕を持ちあわせているのである(比喩的な意味でも)。それこそが著者の研究者としての真髄であり、また同時に一介の研究者には留まらないエッセイストとしての懐の深さを際立たせているのだろう。最後になるが「私はもう何十年もの間、自分のすべての文章を、小学校しか出ていない父(および母)にわかってもらえる言葉で書くようにつとめてきた」(161)という著者の姿勢に私は全面的に賛同するわけではない。しかし、それでも私はその姿勢を心より尊敬するし、怒られついでに自分に対する戒めとして心の神棚にしまっておきたいとも思っている。

 
 熱狂的な武藤/グレート・ムタファンが作ったと思われるドラクエっぽいゲーム(?)。すごい情熱だなあ→http://www.f-navi.net/610/index-mutohquest.html