広くはキリスト教、厳密には中世までの聖書解釈を巡る表象の変遷を紐解く。但し、その主人公はキリストや「神」その人ではなく、それを取り巻く人物たちに他ならない。というのも、聖書の解釈が変遷するのは、神そのものではなく、神の概念を下支えする周縁的な人物に対する解釈が変容するからである。

 以下、あくまで私的なまとめ。

 第1章ではマリアの処女懐胎に焦点が当てられる。マリアの処女懐胎が旧約の予型を実現し、旧約と新約を結ぶ出来事として言祝がれる一方で、その奇跡は古代ギリシャ・ローマの神話的伝承とも類縁関係を切り結ぶ。しかし、マリアの受胎は、決して母の超越的な力の顕現と解釈されたわけではなく、むしろマリアは神の力が顕現する容器としての受動的役割を担い、神の奇跡に力点が置かれる。かくしてマリアの処女懐胎は、耳からの受胎や精霊の光による受胎という外来的/超越的な神の奇跡として表象される。
 第2章では、無原罪の御宿り、すなわちマリア生誕自体が原罪の咎を免れているという信仰について論じられる。聖書には一切触れられていない無原罪の御宿りは、ほとんど民間信仰のような形で推移し、次第に神学者同士の論争へと発展する。争点は、マリアがもし無原罪なのであれば、それはキリストと同等、あるいはそれを凌駕すらしかねない危険な存在になる、という点であった。トマス・アクィナスらのこうした危惧は、マリアの無原罪をもたらした神=キリストの奇跡をマリアの無原罪そのものよりも強調する形で減じられる。マリアの無原罪をローマ教会は公認はしなかったが、バーゼル公会議(1431〜39)において公式に宣言されることになる。というような机上の議論よりも注目に値するのは、無原罪をいかにして表象するのか、という難問である。なぜなら、無原罪を表象するには、無を表象しなければならないからである。無は沈黙によっては表象できない。むしろ、無に当面すると人は饒舌になる。画家たちは、純潔を表す百合やラテン語で書かれた無原罪を証明する碑文を濫用することで、マリアの無原罪という内的な空白を過剰に埋めようとした。しかし、バロック期に近づくにつれ、その作法は徐々にシンプルになり、マリアを装飾で飾り立てるのではなく、マリアその人の高潔さをクローズアップで堂々と描くようになる。ところが著者は、このバロック型の無原罪の御宿りに逆説を見出す。すなわち、「カトリック信仰とそのプロパガンダの最前線に立つ『無原罪の御宿り』」が、その実異教の女神イシスの表象へと近づき、「純潔な聖処女」マリアが「官能的な女神」とも親和性を持ちうるのである。最も興味深い章である。
 第3章では、キリストの養父でマリアの夫ヨセフについて論じる。ヨセフは、キリストの父であるにもかかわらず、マリアが処女懐胎したため、真正の父とはなれない存在である。現に、ヨセフは13世紀ごろまでロダンの彫像よろしく訝しそうにマリアから目を背け、なにやら考え事に耽る老人として表象されていた。しかし、ヨセフはアブラハムまで遡る由緒正しい血筋を引く正統の人でもある。妻マリアの懐妊から除外されたヨセフではあるが、キリストの血筋の正しさを証明するためには必須不可欠の人物でもある。外典福音書を辿る限り、ヨセフの矛盾は際立つ。しかし、この父の矛盾は、家父長制支配にとって搦め手ともなるため、迂路を用意する必要がある。
 11世紀までは、古代ローマの伝統に従い、生まれた子供を父が胸に抱きかかえる儀礼により、父は「生産」された。子の出生を母の貢献から父の権威へと移行させる儀式である。しかし、11世紀以降次第に、父の認知は衰退する。子の肉体の父ではなく、神に代わる精神的な代理父を宣言する洗礼が重要視されるようになるからである。それゆえ、この時期、図像学的には世俗的な代理父ヨセフよりも、むしろ聖別されたキリストとマリアの関係、特にその父(母)−子の互換性に焦点が当てられることになる。かくして、ヨセフは父の物語から排されることになる。
 その一方で12世紀以降、封建領主のあいだで家系や血統に対する関心が高まり、キリストを胸に抱くアブラハムという図像が流布した点も忘れてはならない。この父と子の関係において、絶対的な父の概念が強化され、それを頂点とした樹状の系譜が図像学的に一世を風靡することになる。この家系への関心が敷衍され、14,5世紀頃にキリストの正統性を補完する存在であるヨセフの復権が始まる。大家族から小家族へと核家族化が進行する時代にあって、アブラハムのような超越的な父よりも、そのような超越的な存在と子との間を橋渡しする世俗的な父の概念が強化される必要があったためである。
 ジャン・ジェルソンの『聖ヨセフについての考察』(1413)を嚆矢とする「ヨセフ学」の興隆は、それまで無関心・不機嫌が常套句だった「老人」ヨセフ表象を一新する。マリアやキリストと同じ目線に立ち、キリスト生誕を祝福する「壮年」ヨセフ像の登場である。かくして、ヨセフは説教の中にも登場するようになり、当時の市民の家族観を反映して、父親を中心とした家族の絆を前景化する近代的家族像の体現者となっていった。16世紀に入ると、もはや矛盾したヨセフの姿は消え去り、イタリア語でヨセフを意味するジュゼッペという名前が一気に流行することになる。17世紀に至り、植民地に対する布教にも利用されるようになったヨセフの図像は、ついには彼をマリアや神を凌駕するような主役級の位置に押し上げる。こうしてヨセフの復権は、キリスト教の世俗化、核家族化の進行、布教による侵略と支配、絶対主義国家の台頭といった社会情勢と密に連動しながら相成ったのである。
 第4章では、マリアの母、つまりキリストの母方の祖母に当たるアンナの図像が軸となる。アンナに関しては新約に具体的な記述は全くない。外典がアンナ信仰の典拠となる。しかし、その記述も確たるものではないため、アンナ信仰は民間伝承において醸成される。再婚を繰り返し新約に登場する5人のマリアのうち3人のマリアの母となるアンナ、森林に生きる野生の娘アンナ、不妊から一転して子宝に恵まれた豊穣の守護聖人アンナ、純潔のままマリアを産むもののその後多産なアンナ。キリストやマリアと比して親しみやすかったと推察されるアンナは、結婚や出産が聖性の障壁とならないという免罪符を女性に与え、民間の女性のお手本となっていく。14世紀になると、女性に家庭における教育者としての役割を要請する風潮を反映して、アンナがそのイコンとなる。また、核家族化が進行する15世紀イタリアでは、かつての拡大家族の繁栄ぶりを懐古する郷愁のイコンともなった。
 アンナが特別な意味を持つアンナ信仰のメッカ、フィレンツェではやや事情が異なる。1343年7月26日、フィレンツェの実権を握っていたアテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌが市民によって追放される。町の自由と共和制が取り戻された記念すべきこの日が、聖女アンナの祝日であったため、アンナはフィレンツェ史において顕揚されることになる。絵画に描かれたアンナは、フィレンツェの自由と共和制を司る守護聖人として特別な位置を与えられる。以後、200年に渡って、メディチ家が権力を握るまでこの信仰は興隆する。
 しかし、かくも百花繚乱の観を呈したアンナ信仰も、17世紀に入ると途端に勢いを失する。かつての多彩で錯綜したアンナ像は、裁縫を教えたり、聖書を読み聞かせする家庭の天使へと収斂していくのである。
 
 キリストその人よりもはるかに情報量が乏しい端役、あるいは全く記述がない人物、あるいは外典のみで語られる人物が、聖書世界を豊かにし、絵画世界に色を与えてきたのだろう。正典/外典、教会/民間、書物/絵画といった間の往還が、聖書の世界のダイナミズムを生む。解釈の多様性、想像力介在の余地の威力を知る一冊であった。