タバコ吸うと呆けないらしいがそれって本当?

  
禁煙ファシズムと戦う

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書評/社会・政治

 

 喫煙者を咎め、諭し、あろうことか制裁まで加えようとする向きが「政治的に正しい」とされる禁煙…否、近年、時流に逆らい禁煙の風潮に対して抗議の声を上げることがどんなに難しいことか。率直な感想である。それほどまでに、禁煙という二文字は過剰に市民権を得た。いやそれどころか独裁政権玉座に鎮座すらした。その政の目録は多岐に渡る。素朴な感情論、疫学、人権論、法学、文化論、政治学、メディア、時には暴力。本書は、喫煙が個人、あるいは社会に与える損害に対する恐怖を増幅させ、喫煙者を糾弾する社会風潮を、文化/政治的ファシズムと類縁性を持つ偏向的な運動と位置づけ、その問題点を具に洗おうと試みる。*1 
 喫煙/禁煙の問題を整理する。喫煙者に対する禁煙の主張を、まずは、「タバコの煙や臭いが嫌い」という嗜好を軸としたものと「タバコは健康に悪いからダメだ」という健康を軸にしたものとに分ける必要がある。前者は権利の問題へと繋がる。喘息持ちの人や個人的な体質の問題を抱える人の嫌煙の主張も前者に含まれる。法的に嫌煙の権利を規定すべきかどうかという問題は残るが、基本的にこの種の主張が通るかどうかは個々人の問題であろう。もちろん、日本において嫌煙権が主張され始めた最初期に、福田恆存が、あらゆる迷惑を避ける目的で人権を濫用すれば人間の自由はどのようなものになるか、と警告している点は忘れてはならない(202)。
 次に健康を軸とした嫌煙の主張。まず本書は、「タバコは健康に悪い」とする様々な学説が根拠不十分であり、その多くが病理学的にではなく、疫学的に仮説として立てられたに過ぎない、と主張する。その最大の標的は、主として日本において分煙を推し進める論拠とされてきた平山疫学である。平山疫学は様々な論文において、「受動喫煙」の害を説き、時として「受動喫煙」が「能動喫煙」よりも害をもたらす、と主張する。詳しくは本書を通読していただきたいが(特に173-86)、本書の論旨に沿えば、この平山疫学はかなりの偏りや隠蔽によって作られた砂上の楼閣に他ならない。疑似科学が社会的に下等な地位を排除し、正常な社会構成員を生産してきた、というのが歴史の負の遺産であるなら、平山疫学という楼閣の上に未だ幾握かの砂を・・・、いやそれどころかいっそのことダンプカーで一気に砂を盛ろうとする諸メディアは、この遺産から何も学んでいないことになる。
 問題はこれだけに留まらない。人権や健康といった上記の問題を根底で結ぶのは、国家の原理である。1999年に厚生省が打ち出した「健康21」、そしてそれが形を変え、2003年5月に立法化された「健康増進法」に、国家が国民の健康を厳密に管理する管理社会への移行の発露を見出すのは難しいことではない。「健康21」には、「成人の喫煙率 男女とも現在より半減」(224)が2010年までの目標として盛り込まれ、ご存知のように「健康増進法」の第25条は公共施設の管理者に分煙の配慮をする義務を課している(58)*2嫌煙派の方々は万々歳に違いない。ところが、「健康21」で、食塩摂取量や野菜摂取量、一日の平均歩数、歯磨き粉の使用量まで規定されているとしたら。「健康増進法」第1章「総則」第2条「国民の責務」に、「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と明記されているとしたら。お前は「お母さん」か!、とちょっと突っ込みたい気分にもなる。国家は効率的でなければならない。最小限の入力で最大限の出力を生む個体が、国家にとって理想的な個体である。国家が個体の健康を管理し、個体の生存に関わるコストを削減しようとするのは当然である。しかし、だからといって、自分の人生をそこまで国家に委ねてよいものか。国家に批判的になることができる一定の距離を保てないのであれば、その国家は個体にとって良い国家にはならないのではないか。泥棒を掴まえたり、家の雨漏りを直してくれる「おとうさん」のみならず、健康に気を使ってくれる「おかあさん」との関係を考え直さなければならない。すなわち本書は、ファシズム=マザコンの危険性を説いているのである。
 それでも国家権力の手に全てを委ね、法の力によって禁煙、あるいは「廃煙」を実現したい、と嫌煙主義者が望むのであれば、私は特段抗議はしない。ただ、喫煙が法的に社会的国家的害悪として指定され、それが国家の手によって廃絶されるのであれば、その他のいかなるものが同様の手口で廃絶されようと抗議してはならない。国家に全てを委ね、口実とお墨付きを与えたのは、他ならぬ「あなた」なのだから。これはまるで、1つが共産主義国家になったらドミノが倒れるがごとく全部共産主義国家になるという「ドミノ理論」のような極端な批判かもしれない。しかし、少しでも煙を吸ったら健康を害される、喫煙者は野蛮人だ、禁煙したら人間は生まれ変わる、といった極論が当然のごとくまかり通る昨今のタバコ事情に鑑みる限り、議論の出発点として本書は有意義な提言を行っている、と私は考える。とはいえ、私個人としては、タバコの嫌いな人を怒らせてまでタバコを吸おうとは思わない。ただ、困ったときに吸える環境があればいい、とささやかに思うのみである。


 
 付録:喫煙悲喜交々
 ケース1:研究室付近の廊下。数年に渡り設置されてきた喫煙スペース。男が近寄り喫煙者を恫喝。曰く「タバコを吸うのをやめないと殴るぞ」。
 ケース2:ある居酒屋。女性の先生、友人と。常習的喫煙者曰く、「タバコ吸ってもいいですか?」*3。説教。
 ケース3:あるレストラン。若手の研究者夫婦と。常習的喫煙者、外に出てタバコを吸う。非喫煙研究者曰く、「タバコ配慮してくれてありがとう」。

*1:もっとも、共著者3人の立場が、それぞれ微妙に異なる点は付記しておかなければなるまい。

*2:もっとも、後者に至っては、あたかも法的に「廃煙」が決定したかのように理解している方も多数おられるようだが。

*3:否、いきなり火をつけようとしたかもしれない。だとしたら、この喫煙者の方に非はあると私は思う。