ユニバーサル野球協会

 もろもろ。夕方より実家へ。昼寝をして遅刻。23:00着の終電になってしまい、嫁の機嫌を損ねる。到着後、きびなごの刺身をつまみにちょっと飲んで、就寝。のはずが、電車でたくさん寝たせいで、なかなか眠れず。朝まで読書。

 

ユニヴァーサル野球協会

ユニヴァーサル野球協会

 アメリカ発ポストモダン作家、Robert Cooverの珍妙な長編第2作(1968)。会計士Henryは自作の野球ゲームに嵌っている。この野球ゲーム、そんじょそこらのゲームとはわけが違う。サイコロ3つを転がしては少しずつ展開/転回するこの野球ゲームは、各選手の人生を左右する人生ゲームの様相すら呈する。もちろん、登場人物は全てフィクション。南北戦争後の時代から連綿と続くこの野球盛衰譚は、当初はこのHenryが想像し、3つのサイコロの偶然が創造し続ける一大叙事詩に他ならない。しかし、試合の観客として登場するゲームの創造主Henryも、次第にゲームの中に埋没し、日常生活を破綻させていく中で、ゲーム中の人物と見分けがつかない狂気の状態へと追いやられていく。フィクションは、Henryの現実を構成するのである。現実/虚構を分かつ斜線が消滅する狂気の中で、Henryは会計士としての地位をも放棄し、ひたすらゲーム中のあらゆる記録を「会計」する仕事に従事し、やがてはその大事な記録すらも忘れ、ただひたすら機械的にサイコロを振りながら物語を夢想する「ゲーマー」となってしまう。身につまされる話である。
 古くはキンケシ、ビックリマン、そしてゲームブックに親しみ、果てはゲームブックそのものを創作し、大学時代はダビスタの無限連鎖の中でこのHenryのような生活を送りかけたこともある我が身を振り返る限り、この作品はフィクションなどではなく、全くリアルという他ない。「事実はフィクションよりも奇なり」という故事が全く通用しない現代にあって、案外Henryの生み出した野球協会は、現代の日常生活全体にまで敷衍・普遍化されてしまっているような気もする。そうした意味において、1968年に世に出た本作は、フィクションを創作する作家の脳内回路を暴露しながら現実/虚構の対立を止揚するメタ・フィクション的要素と共に、ゲーム世代の末路を描いたディストピア小説としての特質も持っていることになる。しっかし、ダビスタやりたくなってくるなあ・・・、いかんいかん。