The blues are the roots; everything else is the fruits

 もろもろ。シーフードパスタ。たまには別のパスタも作ろうか。
 来月はカツオの名産地(といっても採れるのは海なんですが)に遠征予定。なので交通手段を熟慮。しかし、なんとも中途半端に遠い。飛行機はほぼないものとして、電車は乗り継ぎが面倒。4時間ぐらいかかる。で、バス。これは夜行バスなので、0泊2日が決定的。私は全然平気なのだが、さすがに嫁さんは無理かなあ、と思いつつも振ってみるが、無理、と即答。消去法でやっぱ電車ですかあ。

NHKブックス(1071) ロックを生んだアメリカ南部 ルーツミュージックの文化的背景

NHKブックス(1071) ロックを生んだアメリカ南部 ルーツミュージックの文化的背景

 日本に限れば殆ど唯一といっていい、アメリカ南部について継続的に執筆している日本在住南部研究者とその同僚による音楽本。といっても、ロック、ブルーズ、ジャズ、カントリーといったアメリカ発祥の音楽をマニアックに批評する、といった類の本では勿論なく、そうした音楽を導きの糸として、音楽が生成し、ひとつのジャンルを為すに至った背景を事細かに綴っていく。帯には「エルヴィス、ディランへと連なる民衆音楽の起源を辿り直す」とあるが、これは額面どおりに受け取ってはならない。どうも著者は起源が束状になって拡散しながらその経路を刻むことにわくわくする一方で、起源をひとつに特定することには関心がないように見える。例えば、アパラチアがカントリーミュージックの「ふるさと」であるとする一方で、著者はその音楽が音楽として成立するには様々な触媒(楽器や様々なメディア)が外から流入してくる必要があった、と付け加えるのを忘れない。さらには、黒人霊歌を特権視することなく、白人霊歌がそれとほぼ同じような形態を持っていた点に言及し、アフリカ起源の断定を繰り延べする。コール&レスポンス然り。ジャズの発祥も例外ではない。「ジャズの起源を探ってひとりのミュージシャンに絞り込もうとする、あるいは時代の場所を特定しようとする研究者は、南北戦争後、ニューオリンズ周辺のプランテーションから四万人ほどの自由黒人が、手荷物のように我流の音楽をひっさげてやってきたという単純な事実を見過ごしてきた」(129-30)と記す著者は、帯では起源探しを謳いながら、それを求める読者の欲望を宙吊りにするのである。
 W. J. Cashから半世紀以上を経た今でも南部を閉鎖的で時の流れから取り残された過疎区として記述したい、というある意味ノスタルジックな欲望は、ここ日本において依然根強いといえる。しかし、南部を自律した空間としていつまでも定位したいという欲望が、ある種の「消滅の語り」(James Clifford)として具象化するとき、それは南部文化の可能性をひとつの起源へと閉じ込め、他の可能性を排除するnationalist/sectionalist的なイデオロギーと無縁ではいられなくなる。その一方で、起源の特定を留保する行為は、ある文化を消滅し行くものとしてネガティヴに記述する行為とではなく、あくまで楽観的に肯定的に起源の多様性を「生成」として記述する行為と同義となる。たとえ、その過程で著者自身の暗い出自(第2章)を直視せざるをえないときでも、その姿勢は単なる過去の断罪へではなく、そこから生産的に未来を紡ぐ可能性へと著者の背中を押す。スキャンダルは、それが消えてしまうからではなく、そこから生まれるものが無視できない重みを持っているから忘れてはならないのである。こんなんも出てます。

黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録 (集英社新書)

黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録 (集英社新書)