お疲れ様

 もろもろ。というかぐうたら。弁当。
 嫁帰宅。帰宅するなり、マシンガントークを浴びる。直撃するとまずいので、新聞を盾に巧みにかわす。なるほど。こんだけ聞けば行かなくてもよかったわい。
 T先輩のシンポやウッチーシンポ(と名付けてしまうとまずいか)を中心にいったらしい。ウッチー、ちょっと甲高い声だったようで、予想していた「ええ声」ではなかったとのこと。いいじゃないか、「ええ声」じゃなくとも。ついでにお話の内容も「うさんくさかった」とも。ええ。それが芸風だもの。それをいちいち疑わずに空気を読んで鑑賞するのが、正しいウッチー鑑賞法である。漫談だと思えばよろし。ところで、O先生のメルヴィルのお話が一番面白かったとか。なるほどなるほど。
 (以下独り言なので、無視してください。)反復といえば、可塑性の問題もあろうが、デリダ的反復の問題も当然あるだろうし、反復はさらに過激な出来事の反復を意味する、というところも面白いところではないか。『ドラゴンボール』を見たまえ。最初はカンフーもどきの肉弾戦が、やがてカメハメ波とドドン波の撃ち合いになり、地上戦からやがて空中戦、果ては瞬間移動の世界へ、地球一決定戦から宇宙一決定戦へ。誰も頼んでいないのに、「元気」を分けてあげないとならなくなる。犠牲者もただの出血から次第に腕がなくなったり、殺されたり、バラバラになったり。それもドラゴンボールという世の不条理を条理へと回収するシステムがあればこその話だが、やがてそれも機能しなくなり、さらなる強力な条理が登場する。何かの反復が成立するには、反復以前よりも過激で(あるとみなされ)なくてはならない。そして(いっそう過激だと思われる出来事の)反復によって反復以前の出来事は歴史的、ときに神話的地位を得る。それは反復以前のトラウマ(という言葉自体は大嫌いだが便利)に対する治癒として働く。しかし、その一方で、反復は完治を永遠に繰り延べする。反復自体が治癒過程であると同時に、その治癒行為自体を自己目的化していく。反復は常に治癒過程であるが、しかし完治を妨げるという意味においてある意味破壊的な現象ともいえる。反復においてhealはhealingとしてしか記述できない。