パロール/エクリチュール=さんま/松本
もろもろ。さばの味噌煮。赤味噌しかなかったので赤味噌を使ったが、白味噌のほうがやっぱりおいしいと思う。
“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)
- 作者: 本上まもる
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2007/05
- メディア: 新書
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問題意識としてはこんなところか。
過剰なディシプリン(=規律)に対して、少しゆるい生き方を提示する、というのはもはやうまくいかない。現代の症例はむしろはじめからディシプリンがないことことのほうが問題なのだ。[中略]
精神分析の考え方では、人間はオイディプス・コンプレックスを通して人間としての基本的な精神構造を身につける、とされる。ところが現在では、このオイディプス化のプロセスが弱まってきているのではないか、との懸念がしばしば語られている。豊かで寛大なポストモダン社会では人々の欲望はほとんどただちに充足されてしまう。欲望が満たされないからこそ、我慢したり、欲望を昇華させたりする、という迂回路を経なくてもいいのだ。(159-60)
この手の本が軒並み問題にしている、「大きな物語」がなくなった後の穴をどうするか、という問題。フーコーの「人間」批判もとっくに古典か(古典化するのがやたら早い世の中になったもんだ)。「人間」は既に解体されていると見るべきか。批評家たちが一生懸命批判しているのは、「人間」の残り物に過ぎないのだろう。「人間」を作る方法はもう機能しないし、代替案もないのだろうか。そういった辺りを念頭に置きながら、ぐるぐる回ってみた。
さて、カラタニが対象aを、つまりは欲望について語らなかった、というのは本当にそんな気がする。著者によると、東がその語られざる欲望の領域を「動物化」や「郵便的脱構築」として論じたという。かなり鋭いまとめのような気がする。欲望の領域に踏み込むことで現代の状況に深くコミットできるようになる一方で、その代わりに批判的距離感がうまくつかめなくなる危険性も無視できない。そういった意味で、規則を共有した「共同体」が尻すぼみし、規則を共有しない「社会」が局限化していく時代に批評の死を語ったカラタニだけども、まだカラタニは批評家だったんじゃなかろうか。著者は福田和也に一縷の望みを託しているような気がする。
余談だが、パロール/エクリチュールをさんま/松本に代替させて説明するところなど大変面白かった。