しばらく太陽を見ていない気がする

 もろもろ。昨日の残りとかつおのたたき。

 講演会続報(訂正しました)。
全体的な要点を簡潔に→http://heppokoteacher.blog36.fc2.com/blog-date-20070710.html
「体験的な判断」と「理論的な判断」の区別について詳しい→http://plaza.rakuten.co.jp/bitteraska/diary/200707070000/


 

だから教授は辞められない―大学教授解体新書

だから教授は辞められない―大学教授解体新書

 10年ほど前の本なので、今の大学の状況とは必ずしも重ならないし、またかなり特殊な事例がやや誇張気味に描かれているので眉に唾して読まなければならない本だとは思う。が、それだけ割り引いても、肯くことの方が多い本でもある。
『紀要』をなくせ、というのは暴論だと思う。確かに学術的に問題ありなものも多いかも知れない。けれど『紀要』は他の査読つき学術雑誌に比べて自由度が高いので、叩き台として利用している人もたくさんいるだろうし、研究の方向を見つめなおしたりするのにも有効だろうと思う。そういう意図の見えないものがあるのは問題だと思うが、それは『紀要』の問題ではなく、あくまでその人の問題だし、その人の存在を許容している環境や制度の問題だと思う。
 研究ができる人=教育ができるひとというのは?。読み書きと話したり聴いたりする能力は互いに連動しているし、インプットのうまい人はアウトプットにも長けているというのもそうだろうと頷く。でも研究と教育がイコールで結ばれるほど近いものだとは思わない。両者の間に多少のズレはあるだろうし、何より教育に専念しなければならない事情、研究に追われる事情というのがそれぞれの先生方にはある。もちろん理想をいえば万能選手こそが求められてしかるべきだとは思うし、現にそうした優れた方々を存じ上げている。しかし、他の執筆者が言っているように、やはりここは評価基準を多様化させるべきではないか。あんまり万能選手を求めすぎると、研究でも教育でも地盤沈下が進むような気がする。それに事務仕事だって大変ですし。事務仕事こそ評価の基準に入れてはいかがでしょう。って言うことの方が、今は現実を見てない理想論のような気がする。
 詩作を愛好する、長年非常勤講師を勤めておられた先生による非常勤講師論は秀逸。非常勤講師の世界は、哀歌でしか表現できない。そういう立場になくとも、ぐっときます。


 

わたくしだから改 (集英社文庫)

わたくしだから改 (集英社文庫)

 ちゃんと語るには、ビールを最低2リットルほど必要とするような話が並ぶ。不幸にして素面なので、もごもご。語れるものを絞って「バリツ」。「バリツ」の話はもの凄い。バートンさんなる方が講道館柔道と我流武術を掛け合わせて作ったバリツ。オーケンによれば、そのバリツが披露される場面で飛び出す技は、グレーシー一族の護身術に近いものだという。なんか壮大。