先生とわたし

 もろもろ。ベイクトポテト。
 トイレがなんかスースーするなあ、と思っていたら、折からの腐食と今回の強風で取っ手のネジがはずれ、窓の上の部分がかろうじて窓枠に引っかかっている状態。4階なので落ちたら大変。慌てて応急処置。腐食したネジをひっかけ、取っ手に紐を通し、てこの原理で水道管に支えてもらう。よかった、直撃じゃなくて。


 『先生とわたし』対談→http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/367106.html。半分同意。残り半分はうーん。

先生とわたし

先生とわたし

 伝説の学者・由良君美とその弟子・四方田犬彦の邂逅・交流・離別を感動的に綴った「評論」。
 かつてAlex Haleyは自らの出自を丹念に追った物語『ルーツ』を「ファクション」(fact+fiction)と呼んだ。同様に象徴的父子関係としても読みうる本作と弟子との物語は、労を惜しまない資料渉猟の成果とはいえ、多分に弟子=子側の師=父に対する斟酌の痕跡を色濃く残すものであり、恐らくは「ファクション」の範疇に属するという推論も許されるはずである。いやむしろ、由良が死してもなお由良の心中を慮る素振りを見せなかった自身の未熟さをひたすら恥じる著者にとって、資料によっては実証できない己が内面のドラマこそがこの「評論」を「物語」として駆動せしめる原動力である以上、本書は「ファクション」として機能せざるをえない。
 実証的な資料を貫く本書におけるフィクションとは、象徴的父子=師弟関係という物語である。由良の脱領域的知性に信頼を置く著者。しかし、その幸福な父子関係は、子が父の世界の向こうへとこぎ始めた途端、徐々に陰影に蝕まれる。やがて、決定的な事件を以って両者は袂を分かつ。しかし、この物語が感動的であり、また説得力をもつ所以は、子もまた父となるという、安定的な父子関係を揺動させる契機が披露されることにある。すなわち、子が成長し、自らもまた子を持つ父であることを著者自身自覚することで、袂を分かった父の内面世界は物語の中で想像され、再現されていくのである。果たしてその過程で再現される父=師は、幸福な父子関係のもとで育まれた父権的な父とは似ても似つかない弱い父=師である。しかし、それは弱い父=師への憐憫の情へと短絡しない。弱い父=師は、父=師となった自分の似姿でもあるからだ。獅子身中の虫が自ら虫であったことを自覚し、かつ自分が今は虫をその体内に宿す獅子であることを自覚すること。その意味で、本書は父=師の履歴を追う「伝記」であると同時に、それを通して子=弟子たる自分が父=師へと至る、己が内面の変化に反省を加えていく「自伝」でもある。*1
 とはいえ、当然ながら終盤、突如として差し挟まれる「間奏曲」が指し示すように、本書の師弟関係は具象から抽象へと昇華され、単なる伝記=自伝としてだけではなく、ひとつの師弟(関係)論としての体裁を整える。かつてのような知の継承が十分に果たされない現状に対して、この「評論」は介入しようとしているのである。スタイナーと山折哲雄の師弟論の系譜に本書の居場所を探したのち、著者は楽観(あるいは達観)へと着地する。
 

 私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一歩を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。わたしはゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければならないと、今では真剣に考えるようになっている。そのとき旧来の師という観念がどのような変貌を遂げることになるかは、まだ予想がつかない。だがいずれにせよ、人間に知的世界への欲求が恒常的に存在している限り、師と弟子によって支えられる共同体は、けっして地上から消滅することはないだろう。

 
 おそらく無味乾燥な知識をただいたずらにひけらかすのではなく、知と知があるときは渾然一体となり、あるときは不即不離の関係に置かれ、またあるときには離反する、そのダイナミズムを身をもって示す、知の扱いに関する知に対して敏感な脱領域的知性が師=父であったからこそ、この楽観は現実味を持ちうるのであろう。そして本書がノスタルジアにも学閥の醜聞へも振れないのは、脱領域的知性(継承)のアクチュアリティへの信頼があるからに他ならない。そうしたズレていく知性を継承する意義は、知の再編が進む今だからこそ確かにあるに違いない。
 ただ、その知性はあまりに貪婪で、常軌を逸しているがゆえに、江湖を寄せ付けない近寄り難さを感じる。おそらくは、本書に示された知性の痕跡に圧倒されないものだけが脱領域的知性の継承者、すなわち師として、師の弱さを引き受けながら弟子の前に立ちはだかることを許されるに違いない。その意味では、永遠に弟子のままであり続けることを宣告されたように感じ、打ちのめされたようななんともいえない読後感が沸き起こるのを禁じえない。オーケン読んでる場合じゃないのか、と思った次第。『先生とわたし』自体が師=父として私の前に立ちはだかっているような、そんな子供気分にさせられる一冊。

*1:この物語は、さらに由良とその父哲次との物語によって深みを与えられている。