「慰安婦問題」とは何だったのか

 もろもろ。梅雨明けしたと思ったら、しこたま暑い。八宝菜。
 
 どんなにつまらないネタでも確実にオチル魔法のボタン→http://www.e-yamashiroya.com/f/1f/dondake/index.html。私にはそんなもの必要ないですけどね、だって・・・超欲しい(囁く)。

 日本vsサウジアラビア、残念でした。終始相手のやりたいサッカーにつきあってしまった感じ。どうもナカムラBとスズキが鍵のような。特に、自陣ゴール前中央での守備の際のCBとの連携(どこで仕掛けるのか、誰がプレスして誰がカバーするのか)、そして3列目が2列目の位置まで上がったときのカバーの取り決め(エンドウ・ナカムラAのどちらかが3列目をカバー。セカンドボールを獲る確率を上げる)あたりが重要でしょうか。攻撃に関しては、運動量が要求されるポゼッションサッカー向きではない環境とボールの転がらないピッチを割り引けば、かなりよくやっていると思います。ただ、ワンタッチも含めたダイレクト(ゴールに向かう)プレーがあまり見られないのは残念。ボールが来てから考える場面が多いような。あと、このサッカーの場合、2トップがもっと上下動することが求められる。ゴール前に張っている場面が多く、2列目が飛び込むスペースが生まれない。つまり、このチームはFW同士、2列目同士、3列目同士、DF同士という横の関係はうまくいっているのだけども、縦の関係がうまくいっていない。だから、ゴールに向かう縦のプレーが少なく、無難にサイドに散らして奪われる→中央の守備がうまくいかずにやられる、という展開が非常に多い。もちろん、セットプレーが大きな武器になることと基本的なパスワークはほぼ問題ないということ、それから少なくとも日本を圧倒するようなチームはアジアにはいないということはポジティヴな要素として確認できたのではないかと。この一年で、ベースはかなり整備されてきたことだし、何が悪いのか、何がいいのかすら全く分からないまま優勝してしまったコインブラ・ジャパンよりははるかに未来に希望が持てるような気がする。あと、今大会は両サイドの調子がいまいちでした。今の攻撃パターンはサイドの選手の能力にかなり依存しているので、コマノとカジの平凡さ(悪くはないのだけども)は敗因のひとつかもしれません。後半に運動量が必ず落ちるのも、なにか対策を考えないと今後苦労しそう。今のままだと、先行できたときはいいけど、できなかったときが。って、そろそろやめます。


 

 「アジア女性基金」の設置・運用に関わってきた法学者・大沼保昭による「慰安婦問題」考察の書。関連本でのナショナリスト/反ナショナリストの相克にいい加減嫌気がさし、だんだん馬鹿らしくなってきたところでの嫁からの差し入れ。類を見ない快著。今のところ、素人の私にほとんど反論の余地はない。
 「慰安婦問題」の根っこには、法と歴史(哲学)の混同、法的責任/道義的責任という問題が横たわっている。まず、「従軍慰安婦」は、それが強制連行であれ、自発的であれ、「公娼」であれ、当時の国内法・国際法に違反していたという点*1。ただし、サンフランシスコ平和条約及び各国と日本が個別に結んだ和平条約により、賠償請求権は消失している。さらに、当時の国内法・国際法に照らして、「従軍慰安婦」を違法と認定したとしても、時効や各条約などの条件で、責任者を処罰することはできない。また、現在左派を中心に提起されているような法改正によって過去の犯罪を裁くという「再審」は、事後法による処罰の禁止という近代法の根本原則に違反する*2。そもそも、それが可能だとしても、「元慰安婦」の被害者が存命中に法的な見返りを手にする可能性は極めて低い。
 著者はこうして歴史の検証と法の適用とをまぜこぜにすることなく、法学の見地から「従軍慰安婦」問題を整理する。法が正義を実現する道具であると同時に「支配のイデオロギー」でもあることを忘れない著者は、全てを法によって解決することの困難を自覚している*3。著者は法的責任が問えないのであれば、その代わりに道義的責任を問うように提案する(法が道義よりも上位だとする通念に対する批判も加える)。その一つの成果が「アジア女性基金」である。詳細は省くが、あらゆる選択肢の中で「アジア女性基金」がもっとも現実主義的であったとしても、著者は決して自分の正しさを絶対化しない。しっかり部分否定を施す。ともすれば、理想主義的な絶対的正義を標榜し、味方を全肯定、相手を全否定しがちなこの手の論争にあって、著者の見識は異色のバランス感覚を伴っている。「不可能なことは倫理たり得ず、人に要求すべきではない」。著者のこうしたリアリズムは、左派/右派という国内的対立を越えて、韓国や中国との関係の再考にも適用される。
 正しいことが、あらゆる状況で正しいわけではない。時には正しすぎて間違うこともある。理想は、現実との折衝において変容する柔軟性をもって初めて、理想足りえるのである。
 

*1:例えば強制労働条約や醜業条約など

*2:女性国際戦犯法廷」は、カタルシスを得ることはあっても、法的責任を問う意味では無意味。

*3:法は、結局多数派の論理を体現したものとなる。そこから零れ落ちる少数派を救うために法を変えることは、多数派の価値を否定することにつながりかねない(もちろん、極力救えるように法改正の努力はするべき)。法が全てのものに対する完全な正義ではない以上、法以外の場でそこから零れ落ちるものを救う必要がある。