歴史認識

 もろもろ。換気扇取り付け。チンジャオロースーその他。

「歴史認識」論争 (知の攻略 思想読本)

「歴史認識」論争 (知の攻略 思想読本)

 

 高橋:というのは、<歴史認識>とは、現在の世界をどう時間軸を広げて認識するかという問題であり、現代世界の他のさまざまな課題と絡み合いながら熾烈なせめぎあいが行われているアリーナとなっていると考えるからです。したがって「<歴史認識>論争」といっても、決して過去の問題をめぐる論争ではない。われわれ自身が生きているこの現在における課題に、直接かかわる闘争の場なのです (6)。

 (『ためらいの倫理学』を批判して)
 鵜飼:ルサンチマン以外の何ものでもないね。絵に描いたようなルサンチマン(笑)。
 高橋:自分は加害者だけど、加害者の痛みにも同情せよ、と言っているわけです。加害者として批判されるときの「つらさ」を「痛み」と称して、それでもって被害者の痛みを相殺しようとしている。性質としても強さとしてもまったく異なるものを、まるで相殺できるかのような見かけをレトリカルに作り出すことで、問題を観念的に解消しようとしているとしか思えないわけです(18)。

 岡野:女性にとって失われた記憶を取り戻し、もう一度自分たちの歴史を語り直すことは、未来の新しい自分たちを創造していくためにはやらないといけない作業です。しかし、同じ言説や論理が、実は小林氏とか西尾氏の側にでも使えてしまう。(107)

 高橋:歴史と記憶の違いの一つは、記憶は身体性を持っている。身体化された歴史が記憶です。歴史学が記述するような歴史に対して、記憶は非常に生々しい過去として身体に刻まれたまま生き続けることがある。まさに元「慰安婦」の人たちの苦痛に満ちた身体的記憶が社会的空間に浮上して、日本に歴史の問い直しを迫ったわけです。(111)

 丸川:逆に言うと天皇制廃止というのは、公的な言説にしなきゃいけないと思うんですよね。そこはせめぎあいがあるわけですが。それはもうこちらの採るべき戦略だと思うんですよ。(130)

 岡野:他方で現状は、形式的な民主主義、私はリーガリズムという言葉で表現しようとしているのですが、正しかろうが何だろうが法に従うというフォーマリズムが非常に行き届いている。少数の異なる声に耳を傾ける、という民主主義を実質的に担保する形にまで、日本の民主主義は届いていない。(132)

 2つ目はさておき。一枚岩的な左翼連合。認識論を絶対化。相手を明確に「右」として名指し、そのイデオロギー性を批判しておきながら、自分たちのイデオロギー性には無頓着。法が弱者を救うという楽観。歴史の高みに立った断罪。文書至上主義を裏返した記憶至上主義。『歴史/修正主義』にも共通するトラウマ理論の無批判的な信奉。結論ありきの左翼運動。結局、対話する気があまりないというか、そもそもこの人たちのいうところの「右翼」系の論客の人たちと全然議論が噛みあわないというか。過去を全部現在の視点から斬れるという思い上がりと過去に帰れという時代錯誤の対立から何が生まれるというのか。互いに相手に勝つことしか考えていない論争に実りある成果は望めない。相手の話を聞いていないし、そもそも自分の考えがもしかしたら間違っているかも、とか全く思わないわけだから、この論争は永遠に平行線だろう(常に相手のいうことは全否定)。例えば、高橋の批判というのは、相手の「考え方」がナショナリスティックだ、というだけ(その意味では、痛みをお国の名誉に回収する国家的装置としての靖国を批判した『靖国問題』は傑作だと思う)。そこに含まれる「過去の出来事」の検証はほぼ不問に付す。どこまでも普遍化された現在に寄り添い、過去を「われら」(左翼)の同時代として扱う。過去に生きていた人たちにも、かれらなりの同時代があったと思うのだが、その辺は不問なのだろうか。保留。