ネオリベ精神分析

 もろもろ。6000字削ってくれというのは、無茶振りだと思う。自分の論文だったら多分無理だが、人の論文なので、なんとか削って差し上げる。弁当。


ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

 昨今話題の「プレカリテ」(「プレカリアート」なんて用語まであるのか)という本体に、「再帰性」と「恒常性」という両翼を接続して、現代社会の原理的問題を上空から総括してみよう、という本。情報量が多すぎてまとめるのはちょっと無理。詰め込みすぎの感は否めない。論述も発展型というよりは羅列型なので、あまり有機的には繋がらない。ただ、様々な問題を総ざらいする上で便利。社会科学系理論の入り口へ案内してくれる本だと思う。あとがきはちょっと泣ける。

 「プレカリテ」は雇用の流動化や共同性の脆弱化によって生まれた、1.身分や権利、生活の「不安定性」、2.将来的見通しの「不確実性」、3.身体や自己、財産などの「危険性」、という3つの不安を折り畳んだ用語。
 その「プレカリテ」を構成しているのが、「再帰性」と「恒常性」の問題圏となる。
 「再帰性」は、行動様式や規範が与えられており、そのモデルに従って生きていくことができた伝統的な社会とは異なる、現代社会における主体のあり方を指し示す語。つまり、確固たる参照点がない社会では、自分の行動や発言などが自分に返ってくる。だから、自分自身を意識的に対象化し、自分の意識を意識的に見直す、つまりメタレベルからの反省的な視点が重要となってくる。現代社会では、この「再帰性」がうまく機能していない。
 個の再帰性で現在問題なのは、自己責任。なんでも自分に跳ね返ってくるので、自分で対処しないといけない。また、個と個を有機的に繋ぐものがしっかり働いていないので、孤立化しがち。
 社会的な再帰性の文脈で言えば、合理性追求のマクドナルド的システムなどは再帰性をうまく機能させることができず、形式的合理性と実質的合理性が矛盾する場合が多い(合理的なように見えて実に非合理的。役所仕事なんてそんな感じか)。また、マクドナルド化する社会は、安易に大衆に迎合する。そのため、大衆と批判的距離を保てない。
 他方、「恒常性」は、安定的に人が生きていくために必要なフィクション。人を信頼したり、共同性を構築したりするために必要なもの。曖昧さや決定不能性を留保して、新しい現実と関わったり、認識を変えたりしていくために必要な基盤。例えば、幼児期の母との一体性のようなもの。もちろん、大きくなって言語を獲得した後も、不安や不確定性(思っているものと違ったらどうしようとか、伝わらなかったらどうしよう)をひとまず括弧に入れて思ったものを言葉にしたり、絵に描いたりして対象の十全性を得る(「昇華」としての文化。『文化と現実界』とも関わる)。理性的な近代主体観に基づいたネオリベラリズムのもとでは、こうした非合理的な世界はとことん否定される。だから、合理主義的な「再帰性」へと回収されるか、とことんそれから逃げて現実との関係がこじれた閉鎖的な恒常性へと落ち込むか、のどちらかになってしまう。
 ラカンに沿って、著者に殴られるのを覚悟で単純化すると、「再帰性」は無意識のレベル(大文字の他者→主体)の話で、「恒常性」は想像的関係(小文字の他者→自我)の話。もちろん、それらは相互に深く連関している。そして連関しているからこそ、想像界象徴界、そしてその向こう側にある現実界の関係を見つめなおし、うまく機能させる必要があるということ。
 マクドナルド化のところで、某有名チェーン店でのバイト体験のことを思い出したり。遠くへ行ってしまった東批判もあり。ブルデュー批判はなかなか興味深い。けれど、まああれはあくまで基準となるモデル(随分かっちりしているけど)なので、出発点としてはあれでいいのではないか。批判されるためのモデルだし。いろいろ有名占い師とかスピリチュアリストとか某ハード芸人とかいろいろ分析しているので、ちょっと構成や文体(誤植もちょっとあり)に難があるけども、面白かった。ちなみに、『「ニート」っていうな』や『下流社会』を世に送り出した編集者が手がけたとのこと。