モウリーニョの代わりにやたらと眼光の鋭いおっさん来る

 もろもろ。コロッケ。
 寝る前に、マンUvsチェルシーモウリーニョという支柱を失ったチェルシーの惨状たるやかなり深刻。もうこりゃ今季はだめなんじゃなかろうか。まだ本調子とはいえないマンU相手にほとんどチャンスも作れないまま。ミケルの一発退場(あそこはイエローでよかったんでないの)という不運があったとはいえ、かつてのチェルシーなら不屈の精神力でなんとしてでも喰らいついたはず。今回はまるで無抵抗のまま敗れた感じ。シェフチェンコの1トップというのもよくわからん。マンUはテヴェスがプレミア初ゴール。復帰2戦目のルーニーは気合がやや空回り。ロナウドは昨シーズンよりも随分大人のプレーに終始。ドリブルばかりだとマークがきつくなるので、パス中心に変えたのか。それともまだ本調子ではないのか。いずれにしてもつまらないぞ。チャンピオンズリーグアーセナルvsセヴィージャ戦とかに比べると、内容も薄い。
 さて、今季は多分リヴァプールマンUの争いにどこまでチェルシーアーセナルが絡めるかというところではないか。
 アーセナルは現在絶好調。大化けしたセスクを中心に、美しさと泥臭さが同居した新スタイルでプレミアを席巻中。一番面白いサッカーをしている。しかし、いかんせん選手層が薄いので、どこまで故障者を出さずに持ち堪えられることか。すでにロシツキー他数人が離脱。
 リヴァプールはなんとか結果は出ているものの、まだ新戦力が既存の戦力とうまく融合していない感じ。どこまで融合が進むかが鍵。ターンオーバー制なので時間がかかりそう。守備陣に故障者が出なければよいが。
 マンUは、はっきりいってルーニーとテヴェスの相性次第。ファーガソンはサハを先発で使う気はあまりないようなので、この2人がファースト・チョイスになる。が、やっぱりタイプが似ているんだよなあ。ルーニーを自由にさせて、テヴェスをできるだけゴールに近いところに張らせるというような役割分担をいまのところ模索しているのだろうけど、なかなか難しそう。前線の流動性が命のチームなだけに、この二人の関係が今季のマンUの行方を左右しそうな気がする。
 チェルシー。多分、戦力的にはトータルで見れば一番。なので、精神的に立ち直れるかどうか。ランパードドログバカルバーリョあたりのレギュラー組の復帰がきっかけになるか。今は、我慢。

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(続き)
 残念ながら、アメリカは9・11によって露呈した「脆さ」を、表向き威圧的な「強さ」とその背後でひっそりと稼動し始めた「弱さ」のコントロールによって克服しようとしている(相互依存的に機能する主権と統治性による法の停止と法外な法の生産。喪失として描かれない、悼まれることのない非人間的生の生産。)。バトラーは、新しい形の「強さ」と「弱さ」の生産と抑圧を戒めながら、並行して「脆さ」がもっているポテンシャルの重要性を説いていく。キーワードは「可傷性」(vulnerability)。

第一世界にいながら居場所を失うという体験が、身体的可傷性の世界における配分のされかたがきわめて不均衡であることに目を開かせる、そのような条件となりうるか?

 

人間には共通の可傷性があり、それは生そのものとともに現れるものだ、と私はここで主張しているわけだが、同時に私たちにはこの可傷性の源にふたたび迫ることがかなわないのだとも私は考えている。可傷性とは「私」の形成に先立つのだ。

 

なぜなら暴力とはつねに、そうした原初の絆を利用し、私たちが身体的存在として、自分自身の外に存在し、たがいのために存在するという原初のありかたを利用するものだからだ。

バトラーは、暴力を振るえる「強い私」がいて、受身の「弱い誰か」がいるというような図式で世界を理解していない。そうではなくて、他の人に傷をもたらす言語や「私」という存在に先立って、弱弱しさ、傷つきやすさがある。「私」が「弱い」とか「強い」ではなく、もともと「弱さ」を基盤として「私」は構成されている。「私」は自分の「弱さ」をどうすることもできない。それは、「私」が統制できない「私」の外にある。暴力は、この万人共通の「弱さ」、「可傷性」を通じて連鎖していく。
 バトラーが問題にしているのは、他の誰かを「弱く」描き出すことで「私」を「強く」引き立たせるような言説のありかた、または「強い私」が「弱い誰か」を力でねじ伏せるような暴力のあり方ではなく、ほかの誰かの「弱さ」を無視する、または消去するような言説的・身体的暴力である。万人共通の「人間」の条件としての「弱さ」をほかの誰かから奪い取り、その人を「人間ではない存在」として固定化することで、その人の生は存在しないことになり、その人の死は決して悼まれない。反対に「弱さ」を持つ「私」の生は尊ばれ、「人間」としての「私」の死は広く悼まれる。9・11以降、アフガニスタン空爆からイラク戦争を経て現在に至るまで、アメリカを中心としたメディア、政治、文化の状況に、バトラーはこうした「弱さ」を軸にした人間化・非人間化の暴力の版図を見ている。もしかしたら、まだ続くかも。