音楽業界

 「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008(http://d.hatena.ne.jp/rmxtori/20071230/p1)。とてもおもしろかった。CDセールスのバブル期はとうに過ぎ、ipod等のモバイル機器の登場により聴取環境が激変、過渡期を迎えた音楽業界についての現状分析。著者は業界の方のようだが、自らの置かれた状況を踏まえ、やや悲観的ながらも抜け道を探ろうとする姿勢が窺える。
 斜陽の業界が陥った袋小路の分析もおもしろいが、個人的にはポピュラリティ(popularity)のところが興味深い。
 

 もちろん、個々人の音楽へ関わりというのはなくならない。ニコニコでもマイスペでもジャズでも80年代歌謡でも洋楽でもそれぞれの中での「いや俺はこれ好きだけど」という盛り上がりはあるのだろうし(実際ブクマでもあったし)、「それぞれが曲を作りそれぞれが曲を聴き」というパーソナルとパーソナルの間でのコンテンツのやり取りは続くだろうし、その媒体になるのがネットだというのも確かですね。

 その良し悪しはいろいろありすぎて一言では言い表せないけれど、仕事を別にすれば、個人的には好ましい流れだと思っています。ただ、トラバ元でも書いている通り、それではビジネスモデルとしては中々成り立たないのも確かで。

 そして、それは単に儲からないということだけでなく、「ポップ」や「ポピュラー」という概念の崩壊も意味しているわけで。「物語の喪失」なんてレベルですらなく、単にお互いが聴いている曲をお互いが知らない、という状況がデフォになるわけです。ITMSamazonもマイスペもYoutubeも、「膨大なデータ量の中から各自好きなものに辿りついてください」というモデルですし。

 生産的なことはいえないだろうけど、なんとなくうじうじ書いてみる。つまり、ポピュラリティとか、ポップスといった概念自体が、死滅したかどうかまでは断言できないかもしれないけども、少なくとも根底から意味が変わってしまった、ということなのだろう。著者も最初の方で言明しているとおり、まあ確かに音楽を聴くという行為そのものは果てしなく私的な行為だろう。自分のお気に入りの音楽を人に聞かせる行為にはある意味ペットの写真を見せびらかすような恥ずかしさが伴う。けれども、それでも音楽がポピュラリティを保持していた時代には、音楽はいろんな層の人が共有できるだけの公的な空間を提供できた。それは音楽にアクセスする「窓口」が限られていたせいかもしれない。テレビやラジオ、音楽雑誌が主役の時代には、共通の接点となる番組や雑誌が存在したし、クラスにひとりくらいはいる事情通的な人物を通じて音楽を共有することができた。けれども、やがて窓口は増殖していく。「ウィンドウズ」のヒットによるパソコン(personal computer)の普及は、「窓」の数を飛躍的に増やし、携帯電話のディスプレイという「窓」もまた私的な領域の中に公共の場を潜在させていった。そうして、「窓」の数が増えるにしたがって、CDセールスの飛躍的な伸びの背後で、静かに「ポップス」は壊れていった。
 そのうち公へのアクセスを担保する「窓」そのものが、公を代替するようになり、公は私的な「窓」の中に折り畳まれていった。趣味が多様化する一方で、音楽鑑賞を趣味とする層もまた分化していく。ポピュラリティは雲散霧消し、ポップスはオリコンチャートにおける数字の上下に還元され、形骸化した。概ねこんな感じなのだろうか。音楽産業の規模を縮小して、持続可能性に賭けるか、それとも「窓」に手をつけるか。公を内側に取り込んでしまう「窓」の機能を変えるか、公へとアクセスする「窓」を創るか。消費最優先のJポップに代わるポピュラリティを創って業界が主体的に公器となるか、それとも多様化した聴取者のニーズに逐一応える道を選ぶか。どちらにしても、浜崎あゆみなどの売れっ子をフル稼働させて帳尻を合わせるモデルはもう立ち行かないということなのだろう。んー、だらだら。