生物と無生物のあいだ

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 分子細胞学者によるミクロな生の巨視的鳥瞰。エッセーとも物語ともつかない絶妙な文体で、生命の神秘を表現する。魁著。
 二重螺旋が相互参照的に自己を複製する。悠久のときを正確に反復するDNAの匕首構造こそ、人間の生命の本質に見える。しかし著者は、外部から隔離されたミクロな再生産様式よりも、より大きな外部と接続したミクロ/マクロを併せて貫く生命のダイナミズムに読者の注意を惹く。細胞は常に分裂を繰り返し、衰えたものは排斥され、より新鮮なものが同じ機能を代替する。波打ち際に居座る砂上の楼閣(152)のように、内容が新陳代謝を繰り返す一方で、外形的には微塵の変化も見えない。電子顕微鏡を覗き込む著者の目に映る生命活動は、同質的な時間を正確に繰り返す時計的反復ではなく、刻々と変わっているのに変わらないように見える、「自己同一化」(identification)と「自己同一性」(identity)の不思議な自家撞着を体現している。
 詩作に長け、また思索家としても著名なリロイ・ジョーンズ(LeRoi Jones=Amiri Braka)は、黒人音楽の遂げるべき本懐を「変わりゆく同一のもの」(the changing same)と表現した。時の流れと共に変化を重ね、およそ原型をとどめないほど形を変えてもまだ「それ」として名指すことができるもの。いみじくも文化批評家ポール・ギルロイ(Paul Gilroy)は、「変わりゆく同一のもの」を己がディアスポラ論に援用するが、伝統の絶えざる刷新を伝統として継承する自家撞着をディアスポラ思想の根幹に据えるギルロイにとって、「自己同一化」と「自己同一性」の相克、あるいはそれらの動的平衡(dynamic equilibrium)こそ欠くべからざるマスターピースであったといえよう。
 人間の文化的営為に動的平衡を見出すジョーンズやギルロイ。そして、生物を電子顕微鏡で精査した福岡が見たものも動的平衡だった。日常的に新陳代謝が繰り返され、栄枯盛衰が淡々と続く。予めある機能の発現をプログラムされた遺伝子を除去しても、それと同様の機能を他の遺伝子が代替する。平衡を崩すような遺伝子の異常、あるいは老朽化に対処し、平衡は保たれる。人体の内奥で密かに繰り返される二重螺旋の建設的で無駄のない再生産に数学美をみるのもよい。しかし、生はその外部に曝されてもいる。それが故に生は流動性の中で危うい平衡を保ち続ける。本書において分子生物学や福岡の個人的体験のような小宇宙が生物全体を構成する銀河へと係累されるように、ミクロな生はその外部に曝され、またそれゆえに美しい動的均衡の軌跡を描く。無理・ムラ・無駄のない再生産ではなく、むしろ余剰や欠如に対応しながら巧みに平衡を保つそのたくましさ。かくて、動的均衡は、人間とウィルスとの間、すなわち生物と無生物の間をとりなすと同時に分け隔てる。

 

 生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。
 これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。生命と環境との相互作用が一回限りの折り紙であるという意味からは、介入が、この一回性の運動を異なる岐路へ導いたことに変わりはない。